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張禧嬪の家系図【朝鮮王朝で唯一、中人出身で王妃なった女性】

張禧嬪は朝鮮王朝で唯一、中人の身分で王妃になった女性でした。

どんな家系で育ったのか?

家族は?

張禧嬪の家系図を詳しく調べてみました。

 

張禧嬪の家系図

張禧嬪は仁同張氏を本貫とする家系の出身でした。

仁同張氏の始祖は高麗時代の大功臣であった張金用と言われています。

<張禧嬪の家系図>

 

歴代通訳を務めた家系

張禧嬪の祖父、父親とも通訳官を務めた歴代通訳の家系です。

特に、祖父の張應仁は 宣祖~仁祖の時に活躍した有名な通訳官で、彼の業績は「通文館志」に記録されています。

張應仁は明から使節や次官が来るたびに、差備官を引き受けるほどでした。

<豆知識>
通文館志とは、外国との交渉を記録した外交書のこと。差備官とは特別な事務を任せるために一時的に任命される官職のことです。

 

父親の張烱(チャン・ギョン)も司訳院(サヨクウォン)の通訳官でしたが、病気のため早期に退官しています。

 

張禧嬪を支えた大商人の張炫

父親の従兄弟にあたる張炫(チャン・ヒョン)は当時、朝鮮きっての大商人でした。

張炫は、1637年に人質となった昭顯世子と孝宗に同行して清に渡っています。

瀋陽で6年間過ごす間に、密かに清国の事情を把握、清の主要人物と人脈を築きました。

 

張炫は清から帰国すると、この人脈を利用して、清と朝鮮間の商品売買で巨大な富を築きました。

このお金が張禧嬪が王妃になるための資金として貢献したと言われています。

 

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張禧嬪はどんな王妃だったのか?

張禧嬪はその容姿が朝鮮王朝実録に記録されるほど美しかったといいます。

実録に容姿を記録された女性がほとんどいないことからも張禧嬪の美しさは例外だったと思われます。

 

プロフィール

本名:張玉貞(チャン・オクチョン)
出生:1659年9月19日
死去:1701年10月10日
王妃の在位期間:1690年-1694年
夫:粛宗
子女:景宗
氏族:仁同張氏
父親:張炯(チャン・ギョン)
母親:坡山府夫人 坡平尹氏
お墓:西五陵大嬪墓(禧嬪張氏墓)

 

朝鮮王朝唯一の中人出身の王妃

張禧嬪は朝鮮王朝で唯一、両班でなく中人(チュンイン)出身の王妃です。

実は、張禧嬪の母親の尹氏は張炯の後妻ですが、奴婢だったと言われています。

おそらく、正室として後妻に入っているので、この時点で尹氏は免賤されたと思われます。

 

張禧嬪の破格の昇級

張禧嬪は明聖王后に追い出されますが、宮殿にもどってからは驚くべき速さで昇格していきました。

何と、4年間で承恩尚宮から王妃まで一気に駆け上がったのです。

年月 品階
1686年 承恩尚宮になる 正五品
1686年12月 淑媛(スグォン)に昇格する 従四品
1688年 昭儀(ソイ)に昇格する 正二品
1688年10月 王子李昀(後の景宗)を生む
1689年1月 嬪(ピン)に昇格する 正一品
1690年10月 王妃になる
1694年4月 嬪に降格する 正一品

 

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張禧嬪の家族

張禧嬪は先妻の長男を入れて、2男2女の次女として生まれました。

父:張烱(1623-1669)
先妻:済州高氏(?-1645)
長男:張希栻(1640-?)
生母:坡平尹氏(1626-1698)
長女:張氏(生年没年不詳)
次男:張希載(チャン・ヒジェ)(1651-1701)
次女:張禧嬪(1659-1701)

 

張禧嬪の父親

父親の張烱(チャン・ギョン)は司訳院(サヨクウォン)の通訳官でした。

名前は張炯(チャン・ヒョン)と記録されている場合もあります。

 

最終官職は正九品の副奉事(プボンンサ)または、従八品の奉事(ポンサ)と記録されています。

張烱は病気のため早く退職し、家で玄琴を楽しんで過ごしていました。

1669年1月12日、張禧嬪が11歳のときに亡くなっています。

 

張禧嬪の母親

張禧嬪の生母は坡平尹氏(名前は不明)です。

尹氏は張烱の先妻が亡くなった後に、後妻として張烱と結婚しています。

 

実録には、尹氏が趙師錫(チョ・サソク)の実家の奴婢であったことが記録されています。

趙師錫は張禧嬪を宮廷に送った南人派の重臣で、粛宗の時に左議政を歴任した臣下でした。

 

実はもう一人、兄がいた

ドラマに良く登場するのは張禧嬪と母親が同じ兄の張希載(チャン・ヒジェ)ですが、先妻の息子として張希栻がいました。

張希栻は、1657年に通訳を選抜する雑科の試験で首席合格して通訳官になっています。

 

張禧嬪の波乱の生涯

張禧嬪は、1659年に張烱と後妻の坡平尹氏の間に次女として生まれました。

1669年に病気のために通訳を退官していた張烱はが亡くなっています。

張禧嬪が11歳のときでした。

 

入宮と粛宗の寵愛

その後、張禧嬪は荘烈大王大妃の針房内人として入宮しています。

入宮した経緯は分かっていませんが、張禧嬪の美貌に目をつけた南人派が送り込んだとも言われています。

そして、案の定、その美貌により粛宗の寵愛を受けるようになります。

 

宮廷からの追放

1680年頃、西人側の明聖王后からは嫌われ、張禧嬪は宮廷から追放されます。

さすがの粛宗も明聖王后に歯向かうことはできませんでした。

しかし、1684年、明聖王后が亡くなると、再び、張禧嬪は側室として宮廷に送り込まれます。

<豆知識>明聖大妃との激しい嫁姑の対決は事実か?
明聖大妃が張禧嬪をよく思っていなかったのは事実ですが、ドラマのような明聖大妃と張禧嬪の対決はありませんでした。ドラマ「トンイ」では宮廷に戻ってからも、二人の争いは激化していましたが、史実では明聖大妃が亡くなってから、張禧嬪は宮廷に戻っています。従って、ドラマのような明聖大妃と張禧嬪の対決はありませんでした。

 

張禧嬪が王妃の座に就く

その後、淑媛(従四品)、昭儀(正二品)と昇進して、1688年には李昀(後の景宗)を出産しました。

1689年には側室の最高位である嬪(正一品)に昇進、李昀は元子に封せられました。

 

この時に、仁顕王后を支持していた西人派は李昀の元子冊封に反対しますが、粛宗によって西人派は一掃されてしまいます。

1690年、この己巳換局により、西人派の仁顕王后が廃位されて、南人派の張禧嬪が王妃の座に就きました。

こうして、朝廷の中心が西人派から南人派に移っていきました。

 

王妃からの降格、そして賜死

しかし、南人派への権力の集中を恐れた粛宗は、今度は南人派を抑えるために仁顕王后を復位させて、張禧嬪を嬪に格下させてしまいました。(甲戌換局)

1701年、仁顕王后が病死すると、西人派が仁顕王后の病死は張禧嬪が巫女を使って呪詛したためだと主張しました。

 

これにより、粛宗は張禧嬪に死罪を言い渡しました。

1701年10月10日、張禧嬪は賜薬により処刑されました。

享年42歳でした。

 

まとめ

通訳官の家系に生まれ、中人出身でありながら、その美貌で王妃にまでなった張禧嬪でした。

しかし、その一生は朝廷の派閥争いに巻き込まれた波乱万丈の生涯でした。

張禧嬪は死後、復位されることなく、側室の嬪のまま西五陵に眠っています。

 

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