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仁元王后の家系図【延礽君(英祖)を救った王妃とは】

トンイやヘチ王座への道に登場する仁元王后(イヌォンワンフ)は延礽君を救った王妃として有名です。

実在した仁元王后はどんな王妃だったのか。

仁元王后の家系図から詳しく調べてみみました。

 

仁元王后の家系図

仁元王后の家系は新羅の金閼智を始祖とする慶州金氏の一族です。

慶州金氏からは多くの氏族が分かれし、その氏族には旧安東金氏や全州金氏があります。

<仁元王后の家系図>

 

<仁元王后の先祖>

名前 備考
始祖 金閼智
七代祖 金引齡 持平
六代祖 金萬均 大司憲
五代祖 金命元 慶林府院君
高祖父 金守廉 僉知中樞府事
曾祖父 金南重 判書(耆老所)
祖父 金一振
金柱臣 護衛大将

 

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仁元王后はどんな王妃だったのか?

仁元王后は仁顕王后が亡くなると、揀択により選ばれて第19代国王・粛宗の3番目の王妃となりました。

このとき、仁元王后は16歳、粛宗57歳、景宗15歳、英祖9歳、そして、淑嬪崔氏は33歳でした。

仁元王后のプロフィール

厳格で意志が強く、王室の法を厳しく守った人でした。

義理の息子の英祖とその妃、そして、英祖の息子の荘献世子(思悼世子)を大切にしたと言われています。

<仁元王后のプロフィール>
生年:1687年9月28日
没年:1757年3月26日
在位期間:1702年〜1720年
配偶者:粛宗
子女:なし
氏族(本貫):慶州金氏
父親:恩府院君 金柱臣(キム・ジュシン)
母親:嘉林府夫人(林川趙氏)
墓:明陵

 

仁元王后の生涯

仁元王后の生涯を関連する出来事と合わせてまとめました。

出来事
1687年 金柱臣と嘉林府夫人の娘として生まれる
1694年 張禧嬪が側室に降格
1701年 張禧嬪が死罪になる
2番目の王妃・仁顕王后が逝去
仁元王后が揀択で選ばれ入宮
1702年 正式に王妃に冊封される
1711年 天然痘を患うが回復
1713年 恵順(ヘスン)の尊号を受ける
1718年 淑嬪崔氏が亡くなる
1720年 粛宗が亡くなって景宗が即位する
仁元王后は王大妃になる
1721年 延礽君を養子にする
1721年 景宗が延礽君を王世弟に冊封する
1724年 景宗が崩御され、王世弟は第21代王・英祖として即位
仁元王后は大王大妃になる
1757年 義理の娘・貞聖王后(英祖の正室)が亡くなる
1ヶ月後、宮殿・昌徳宮で71歳で亡くなる

仁元王后は英祖の母・淑嬪崔氏とは仲が良かったといいます。

仁元王后が入宮したときには、朝廷は西人派が老論派と少論派に別れて激しく対立していました。

少論派は王世子(景宗)を支持、一方、老論派は延礽君を支持していました。

 

粛宗が亡くなり、景宗が即位すると、少論派から狙われていた延礽君を養子にして延礽君を守りました。

仁元王后の一族は少論派に属していましたが、彼女自身は老論派に鞍替えまでしました。

そのため、英祖は生涯、仁元王后を大事に孝行したと言われています。

 

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仁元王后の家族

仁元王后は父・金柱臣と母・嘉林府夫人の間に生まれた長女でした。

父親 金柱臣 領敦寧府事
母親 嘉林府夫人 本貫:林川趙氏
金後衍 參議
金九衍 金介臣の養子
本人 仁元王后
不明 李德鄰の妻
不明 尹勉敎の妻
弟(庶子) 金亨 郡守
弟(庶子) 金可衍 縣監

 

仁元王后の父親

仁元王后の父親の金柱臣は、科挙に合格して官吏になると、掌苑署の別監、順安の県監を歴任しました。

県監の時に娘が王妃に選ばれて、その御蔭で護衛大将にまでなりました。

 

仁元王后が書いたハングル文集

2006年に仁元王后が書いたハングル文集が発見されています。

文集は全部で3冊から構成されており、2冊は王妃になってからの親の行動ぶりや対話が詳しく記録されています。

例えば、

「これだけ珍しい食べ物を、こんな下品な口で食べることができますでしょうか」

仁元王后の前に平伏した父親が差し出された茶菓を遠慮したときの言葉がリアルに記録されています。

 

もう1冊は仁元王后がよく読んだ文学作品について記録したものです。

宮廷の高貴な女性が残したハングル文集は少なく、現存するのは仁穆大妃の「癸丑日記」と恵慶宮洪の「閑中録」だけです。

従って、仁元王后のハングル文集は、宮廷の生活を知る上で貴重な文集として評価されています。

 

仁元王后が出るドラマ

仁元王后が出るドラマはそれほど多くはありませんが、トンイやヘチ 王座への道は日本でも大人気のドラマです。

いずれのドラマにおいても、仁元王后はドラマの重要な役割を果たしています。

<仁元王后が出るドラマ>
大王の道(1998年、キム・ヨンリム)
トンイ(2010年、オ・ヨンソ)
ヘチ 王座への道(2019年、ナム・ギエ)

 

 まとめ

仁元王后は厳格で意志が強く、王室の法を厳しく守った人でした。

仁元王后の家は少論派でしたが、彼女自身は老論派に鞍替えしてまで延礽君を守りました。

子供のいなかった仁元王后にとって、延礽君を王にすることが宮廷で生き残る唯一の道だったのでしょう。

 

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