顕宗の時代は激しい党争に明け暮れた時代、前代未聞の大飢饉に襲われた時代でした。
また、顕宗の王妃は気が強く、気性の荒い明聖王后でした。
顕宗はどんな王だったのか?家系図から詳しくご紹介します。
顕宗の家系図
顕宗は孝宗(鳳林大君)の長男として生まれました。
本来なら、昭顕世子の息子が王位に就けべきところですが、仁祖が父親の鳳林大君を世子として王位に就けています。
母親の仁宣王后は徳水張氏一族で右議政を務めた張維の娘でした。
<顕宗の家系図>
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顕宗はどんな王だったのか?
顕宗に関する性格を記録した資料は見当たりません。
朝廷内の激しい党争と気の強い妻との中で、気苦労の多かった王とも言われています。
顕宗のプロフィール
没年:1674年8月18日
享年:34歳
在位:1659年6月23日-1674年9月17日
本名:李棩(イ・ヨン)
字:景直(キョンジク)
廟号:顕宗
父:孝宗
母:仁宣王后
王后:明聖王后
陵墓:崇陵
側室を持たなかった王
顕宗は朝鮮王朝で側室を持たなかった4人の王に一人です。
他の3人の在位期間が3~4年と短いのに比較して、顕宗は在位期間が15年もありました。
王妃の明聖王后は気が強く、気性の荒い女性で、顕宗が側室を持つことが出来なかったとも言われています。
しかし、顕宗が即位した翌年の1660年から1668年まで毎年のように子供に恵まれています。
このことからも、顕宗は明聖王后を大変寵愛していたと思われます。
1670年から2年間、朝鮮は日照りによる大飢饉(庚辛大飢饉)が発生します。
朝鮮史上最悪の大飢饉で、約1300万人の朝鮮人口のうち90万人以上が亡くなったと記録されています。
側室どころではなかっと推測されます。
また、1674年に孝宗の妃であった仁宣王后が亡くなり、再び、礼訟論争が起こりました。
この論争のなかで、顕宗は34歳の生涯を閉じています。
顕宗が側室を持たなかったのは、明聖王后が恐ろしかったからではなく、むしろ大変愛していたからではないでしょうか。
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顕宗の家族
顕宗は明聖王后との間に1男3女の子供を授かりました。
息子はドラマ「トンイ」で有名な第19代王になる粛宗です。
<顕宗の家族>
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
正室 | 明聖王后 | 1642-1684 | 金佑明の娘 |
長男 | 李焞 | 1661-1720 | 第19代国王・粛宗 |
長女 | 明善公主 | 1660-1673 | |
次女 | 明恵公主 | 1665-1673 | |
三女 | 明安公主 | 1667-1687 | 李温姫、呉泰周の妻 |
妻の明聖王后
明聖王后は気が強く、気性の荒い王妃だったと言われていますが、義母の仁宣王后が生存中は大人しかったといいます。
しかし、義母の仁宣王后、夫の顕宗が続けて亡くなると、本来の気性が現れます。
息子の粛宗が王位に就くと、政務にまで口を出し始めたといいます。
明聖王后について詳しくは>>明聖王后の家系図【気性の荒さで多くの問題を起こした粛宗の母親】
妹はスッキ王女
ドラマ「馬医」に登場するスッキ王女のモデルは顕宗の妹の淑徽公主です。
スッキ王女は「馬医」では型破りな王女として描かれています。
12歳で結婚、20歳で子供を生みますが、翌年、夫を亡くしてしまいます。
若くて寡婦になるのは、史実どおりです。
しかし、ペク・クァンヒョンと出会った記録はなく、痘瘡にかかった記録もありませんでした。
詳しくは>>馬医のスッキ王女(淑徽公主)は死ぬのか?【実在も痘瘡で危篤?】
顕宗の生涯
顕宗の生涯をご紹介します。
国外で生まれた唯一の王
清に降伏した祖父の仁祖は、二人の息子を人質として清に差し出すことになりました。
孝宗(鳳林大君)は兄の昭顕世子と供に清で暮らし始めます。
1641年2月4日、顕宗は孝宗(鳳林大君)と仁宣王后の間に、清の瀋陽で生まれました。
顕宗が世子に冊立
1644年、清が明を破り、人質の必要が無くなり、孝宗の一家は解放されました。
しかし、1645年、突然、昭顕世子が亡くなり、父の孝宗(鳳林大君)が世子になります。
1649年2月18日に顕宗が王世孫に冊封されると、同年5月8日には仁祖が亡くなりました。
父の鳳林大君は第17代王・孝宗として即位します。
1651年、顕宗が11歳で世子に冊立されると、お姫選びが始まり、揀択により明聖王后が世子嬪に選ばれました。
顕宗が第18代王として即位
1659年6月23日、孝宗が亡くなると、顕宗が第18代王として即位しました。
このとき、慈懿大妃(第16代国王仁祖の継妃)の喪に服す期間を巡って、1次礼訟論争が起こります。
3年を主張する南人と1年を主張する西人が対立、最終的に西人が勝ち、南人の勢力が減衰しました。
名目は喪に服す期間の対立ですが、実質は権力を掌握するための派閥党争でした。
第19代王・粛宗が生まれる
1660年から1668年の間に顕宗と仁宣王后は1男4女の子供を生んでいますが、最後に生まれた娘はすぐに亡くなっています。
1661年:長男(後の19代王・粛宗)が生まれる
1665年:次女の明恵公主が生まれる
1667年:三女の明安公主が生まれる
1668年:娘が生まれるが、すぐに亡くなる
庚辛大飢饉が勃発する
1670年から2年間に渡って、日照りによる大飢饉が発生しました。
庚辛大飢饉と呼ばれています。
冷害、干ばつ、風害、病虫害などのあらゆる自然災害が重なり、朝鮮の人口約1300万人のうち90万人以上が死亡するという記録に残る大災害となりました。
再び、礼訟論争が起こる
1674年に、孝宗妃だった仁宣王后が亡くなると、再び、礼訟論争が起こりました。
2次礼訟論争です。
慈懿大妃(第16代国王仁祖の継妃)の喪に服す期間を巡って、南人は1年を主張、西人は9ヶ月を主張しました。
今度は南人が勝ち、西人の勢力が減衰しました。
1674年9月17日、激しい派閥党争の中、顕宗が亡くなりました。
享年34歳の若さでした。
顕宗が登場するドラマ
顕宗が登場したドラマとしては、ハン・サンジンが演じた「馬医」がよく知られています。
チャン・ヒビン(2003年、ヤン・ジェソン)
馬医(2012年、ハン・サンジン)
チャン・オクチョン-愛に生きる(2013年、チョン・インテク)
( )は演じた俳優
まとめ
顕宗は特に海外からの侵略も無く、平和な時期に国王を務めました。
しかし、朝廷は激しい派閥党争に明け暮れ、民の暮らしは大飢饉で悲惨な状況でした。
妻は気が強く、気性が荒い明聖王后と心身ともに休まるところが無かっと思われます。
それでも、側室を持つことはありませんでした。
その理由が、明聖王后に対する恐れだったのか、愛情だったのか、今となっては確認する術はありません。