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明成皇后の家系図【閔妃を輩出した名門・驪興閔氏】

義父・興宣大院君と激しい対立を繰り広げた明成皇后。彼女の家系図から名門・閔一族の存在が見えてきます。

この記事では、明成皇后の家系図をもとに彼女の人物像、家族構成、波乱の生涯について詳しく解説します。

明成皇后の家系図

明成皇后は中国系の名門・閔氏一族の出身です。閔氏一族は太宗の王妃・元敬王后や粛宗の王妃・仁顕王后を輩出した王室と深いつながりを持つ家系でした。

閔妃(ミンピ)とも呼ばれる彼女は幼くして兄弟を失い一人娘でしたが、興宣大院君の妻の実弟・閔升鎬(ミン・スンホ)が義兄となり、その存在が王妃に選ばれる大きな後押しとなりました。

明成皇后の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<明成皇后の家系図>

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明成皇后はどんな王妃だったのか?

明成皇后は幼くして父を亡くしましたが、礼儀作法や学問に優れ、容姿も王妃にふさわしいものでした。王妃になってからも蔵書を夜通し読み漁り、「春秋」「左伝」の知識は後の政治に大きな影響を与えました。

<プロフィール>
本名:閔玆暎(ミン・チャヨン)
生年:1851年9月25日
没年:1895年8月20日(享年45歳)
埋葬:1919年3月3日
氏族:驪興閔氏
父親:閔致禄
母親:韓山李氏

明成皇后は8歳のときに父親の閔致禄(ミン・チロク)を亡くし、一家には権力も財力もありませんでした。しかし、権力も財力も無かったことが、逆に明成皇后の王妃選定(揀択)に有利に働きました。

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明成皇后が王妃に選ばれた理由

明成皇后が高宗の王妃に選ばれたのは、外戚の権勢を嫌った興宣大院君の意向に合致。名門出身で資質を備えていながらも父を早くに亡くして一家が無力だったからでした。

さらに大院君の妻で同じ閔氏の驪興府大夫人が気に入り推薦したことも決め手となりました。1866年、明成皇后は16歳で王妃として迎えられます。

明成皇后の生い立ち

明成皇后は1851年、ソウルから南東へ約60kmの地にある名門・驪興閔氏の本拠地、驪州(ヨジュ)で生まれました。彼女の生家は、仁顕王后の父・閔維重の墓を守るため、1687年に墓幕として建てられたものです。

明成皇后が8歳まで住んだ生家の画像
<明成皇后が8歳まで住んだ生家>

明成皇后の生家と明成皇后記念館
明成皇后が生まれ、8歳まで住んだ生家は、今ではきれいに改装されて、近くには明成皇后記念館も建立されています。
場所:ヨジュ市明成路71

明成皇后の生家の近くには、明成皇后が8歳から王妃になるまでに住んだ感古堂が漢陽(現ソウル)から2008年に移設されています。

移設された感古堂の画像

<移設された感古堂>

感古堂は仁顕王后が廃位されたときに住んだ家としても有名です。

政治への介入と独裁者への道

夫の高宗に顧みられなかった3年間、明成皇后は異常な熱意で読書に没頭。その知識を武器に政治に介入し、権力を掌握していきました。

彼女の強気な性格は反対勢力を徹底的に弾圧し、興宣大院君さえ失脚させています。こうして彼女は次第に独裁的存在へと変貌していきました。

興宣大院君との対立の詳細はこちら>>大院君と閔妃の対立【朝鮮王朝末期を震撼させた政争の真実】

乙未事変|明成皇后の悲劇的な最期

朝鮮で実権を握った明成皇后は清やロシアと結び、日本を排除して政権を維持しました。これに危機感を抱いた日本は公使・三浦梧楼のもと暗殺を計画。1895年10月8日、日本軍や大陸浪人らが景福宮に乱入して皇后を殺害します。

遺体は林で焼かれましたが、襲撃は目撃者により告発され、日本は国際的非難を浴びました。関係者は裁判にかけられたものの釈放され、黒幕は今も不明です。

<豆知識>乙未事変の目撃者
乙未事変を目撃したのは建築家サバティンで、宮殿警護員として現場に居合わせ、一部始終を記録し証言として残しています。

明成皇后のお墓(洪陵)

乙未事変で殺害された明成皇后は1897年に国葬で洪陵に葬られ、この時に諡号「明成皇后」が贈られました。1919年には高宗とともに現在の洪陵へ移され合祀されています。

<明成皇后が埋葬されている洪陵>

明成皇后の実子・純宗には子がいなかったため、彼女の血筋は断絶しています。

明成皇后の家族

明成皇后は第26代王・高宗との間に4男1女の子供を生みますが、4人は幼くして亡くなりました。成長したのは、第27代王・純宗一人だけでした。

<明成皇后の家族>

高宗 第26代王
明成皇后 1866年王妃になる
長男 大君 早世、1871-1871
長女 公主 早世、1873-1873
次男 李坧 純宗、1874-1926
三男 大君 早世、1875-1875
四男 大君 早世、1878-1878

夫・高宗には多くの側室がおり、永保堂貴人李氏、張貴人、純献皇貴妃厳氏らが有名です。特に、厳氏が生んだ李垠(英親王)は後の皇太子に立てられ、近代朝鮮史に大きな影響を与えました。

明成皇后の義兄・閔升鎬

明成皇后は兄弟を早くに亡くしたため、興宣大院君の妻の実弟・閔升鎬を養子に迎えました。彼は外戚として皇后を支え、安東金氏や豊壌趙氏と結んで反大院君勢力を築き、閔氏による勢道政治の基盤を整えました。

しかし1874年、郵便小包に仕込まれた爆発で息子とともに命を落とし、一族の権力は大きく揺らぐことになります。

まとめ

明成皇后は名門・閔氏の出身で学識と政治感覚で権力を掌握しました。しかし、その強硬な性格は対立を招き、やがて乙未事変で非業の最期を迎えます。

家系図を辿ることで、彼女の波乱の生涯と閔一族が果たした歴史的役割をより深く理解することができるでしょう。

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