朝鮮の併合、消滅、大韓民国の誕生など
李垠は時代の大きな流れのなかで人生を全うしました。
李垠はどんな人物だったのか?
家系図から詳しくご紹介します。
李垠の家系図
李垠は第26代王・高宗と純献皇貴妃との間に生まれ、純宗とは義兄弟になります。
純宗に子供ができなかったことから、皇太子に冊封されています。
李垠の家系はまさに、李王家の滴流といえます。
一方、李垠の妻・方子の家系は崇光天皇を先祖とする日本の皇族の家系でした。
<李垠の家系図>
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李垠はどんな人物だったのか?
李垠は口数も少なく、大変寡黙な人でしたが、妻にも子供にも優しい人でした。
11歳とまだ幼い頃に、伊藤博文に認められ、日本へ留学しています。
日本では皇族の義務として日本の軍役に務め、模範的な軍人だったと言われています。
李垠のプロフィール
李垠はラン栽培を趣味とし、その腕は専門家レベルだったといいます。
また、カメラ、ゴルフ、スキーなど多趣味な人でした。
李垠(イ・ウン)
生年:1897年10月20日
没年:1970年5月1日
享年:74歳
父:高宗
母:純献皇貴妃
妻:梨本宮方子
子女:李晋、李玖
墓所:英園
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李垠の家族
李垠は妻・方子との間に二人の息子をもうけました。
しかし、長男は朝鮮に訪問した際に、幼くして急死しています。
<李垠の家族>
関係 | 名前 | 読み | 生年-没年 | 備考 |
夫 | 李垠 | イ・ウン | 1897-1970 | 高宗の七男 |
本人 | 李方子 | イ・バンジャ | 1901-1989 | 梨本宮守正王の長女 |
長男 | 李晋 | イ・ジン | 1921-1922 | 早世 |
次男 | 李玖 | イ・グ | 1931-2005 | 子女なし |
李垠の妻・梨本宮方子
李垠の妻は日本の皇族であった梨本宮守正王の長女でした。
娘が二人のため、もし、娘が皇族に嫁がせなければ梨本宮家は平民に降格します。
しかし、中々、娘の結婚相手は見つかりませんでした。
この危機感から、母親の伊都子は極秘裏に李王家との結婚を進めたといいます。
政略結婚でしたが、会ってからの二人はお互いにとても気に入ったと言われています。
詳しくは>>梨本宮方子の家系図【朝鮮王朝最後の皇太子の妃】
李垠の子供
李垠の長男は幼くして急死、次男の李玖は75歳まで生き、日本で亡くなっています。
長男の李晋の突然の死
長男の李晋(イ・ジン)は1921年8月18日に生まれました。
しかし、 1922年5月11日に訪問先の朝鮮で突然、亡くなってしまいます。
生後8ヶ月のことです。
生まれた晋と伯父・李王(純宗)との顔合わせも目的の一つでした。
初の子供を失った夫婦の絶望と悲しみは、運命というには余りにも残酷なものでした。
次男の李玖は最後の王位継承者
1931年12月29日に次男の李玖(イ・グ)が生まれました。
実は、玖が生まれるまでに、方子は2回流産をしていました。
そのため、玖が無事に生まれた時の喜びようは言葉に言い表せないものがあったと思います。
玖は学習院を卒業するとアメリカのマサチューセッツ工科大学で学びました。
1958年にはアメリカ人女性と結婚しています。
しかし、その後、事業の失敗、離婚、詐欺事件など、決して良い人生ではありませんでした。
最後は、かつて自分が暮らした李王家邸であった赤坂プリンスホテルでヒッソリと亡くなっています。
2005年7月16日のことでした。
李玖に子供はなく、李垠の直系子孫は李玖を最後に断絶しました。
李垠の生涯
朝鮮で最後の皇太子となった李垠の生涯をご紹介します。
皇太子となり日本に留学
1897年、李垠は高宗の七男として生まれました。
母親は一度は明成皇后により宮廷外に追い出された純献皇貴妃でした。
1907年8月27日、義兄の李坧が純宗として即位すると、李垠は皇太子に冊立されます。
李垠には20歳年上の腹違いの兄・李堈がいましたが、品行が悪く、皇太子には指名されませんでした。
同年12月には、伊藤博文の進めで日本に留学、1908年に日本の学習院に入学しています。
1910年、日韓併合により、高宗、純宗など大韓帝国の皇族は日本の王族に編入されました。
純宗は李王と改称され、李垠は王世子となりました。
日本の軍人となる
李垠は日本の皇族男子にならい、陸軍の学校に入り軍人の道を進みます。
1911年、陸軍中央幼年学校予科の第2学年に編入
1913年9月、陸軍中央幼年学校本科に入学します。
1917年には、陸軍士官学校を卒業して、陸軍将校となりました。
日本の皇族の娘・方子女王との結婚
1916年8月、方子の母・伊都子の強い働きかけで、李垠と梨本宮方子の結婚が決まりました。
しかし、挙式4日前に李垠の父・李太王(高宗)が亡くなってしまいます。
当然、結婚は延期されますが、この期間が政略結婚と言われた李垠と方子の二人にとって、互いを知るよい機会になりました。
お互いに顔も見ることなく婚約を知った二人でしたが、結婚の当日には深く愛し合うようになっていました。
1920年4月28日、結婚延期から約1年後に李垠と方子が結婚しました。
二人に襲った最初の悲劇
1921年、二人に待望の長男・李晋が生まれました。
1922年、朝鮮から里帰りの要請がありました。
晋を純宗の初顔合わせと朝鮮での結婚式が大きな目的でした。
二人は幼かった晋を連れて朝鮮に向かいました。
すべて順調に終えようとした、帰国直前に悲劇が起きました。
晋の具合が急に悪くなり、そのまま亡くなってしまったのです。
あまりの突然なことに毒殺説も噂されたほどでした。
二人は失意のまま帰国します。
李垠の王位継承と次男・李玖の誕生
1926年、李王(純宗)が亡くなり、李垠が王位を継承しました。
李垠は「昌徳宮李王垠」と称されています。
しかし、李垠は軍人としての務めに励みます。
1923年に陸軍大学を卒業した李垠はその後、陸軍少将、陸軍中将と昇進を重ね、1943年には第1航空軍司令官まで昇格しています。
1931年、私生活では李垠夫妻に次男の李玖が生まれました。
2度の流産を経験している二人にとって李玖の誕生は計り知れないものがあったと思います。
日本の敗戦による悲劇
1945年、日本が太平洋戦争で敗戦します。
日本政府から支給されていた生活費は打ち切られ、生活は苦しいものとなります。
また、軍人であった李垠は公職追放により公職から追放され、社会的制裁を受けます。
1947年には王族としての地位を喪失し、外国人扱いとなりました。
1948年、朝鮮では李承晩大統領が大韓民国政府樹立を宣言して、大韓民国が誕生しています。
1952年にはサンフランシスコ講和条約発効により、李垠夫婦は正式に日本国籍を失います。
李垠は韓国への帰国を強く望みましたが、王族の庶流であった李承晩は嫡流の李垠の帰国を認めませんでした。
李承晩は族譜では太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の16代末裔でした。
譲寧大君は品行が悪く、世子を廃位された人物でした。
李垠夫妻は韓国籍も認められず、二人は無国籍の状態になります。
李垠は収入が無い上に、戦時補償に多額の税金を徴収され、李王家邸など資産を売却して食いつないでいきました。
李垠が脳梗塞で倒れる
1957年、息子の李玖がアメリカの大学を卒業してアメリカで暮らし始めました。
李垠夫妻はアメリカに渡り、しばらく息子と一緒に暮らしていました。
しかし、1959年3月16日、突然、李垠が脳梗塞で倒れて、5月17日には夫婦は急遽日本に帰国しました。
李垠はその後回復、再度渡米したり、ハワイの李玖の元を訪ねたりしていました。
李垠の最後
1962年、遂に、夫婦ともに韓国籍が認められ、1963年から韓国政府による生活費の送金が開始されました。
1963年5月、李垠の容体が悪化、赤坂の山王病院に入院します。
しかし、11月22日、病身の李垠でしたが、長年の念願だった韓国へ渡り、大歓迎を受けています。
李垠はソウルの聖母病院に入院、治療を受けますが、1970年5月1日、永眠しました。
享年74歳でした。
妻の方子は李垠の死後も、韓国に残り、夫・李垠の願いであった障害児教育に取り組みました。
まとめ
朝鮮最後の皇太子となった李垠の人生は波瀾万丈の生涯でした。
李垠は異国の地で異国の王女と結婚し、異国に地に人生を捧げます。
しかし、その結果は無国籍の貧幸生活でした。
病身の体で韓国に戻った李垠は願いをかなえることなく亡くなります。
妻の方子は祖国に残り、李垠との約束である障害児教育に取り組み、苦労の果に韓国の母と呼ばれるようになりました。
李垠が妻の献身に小さく微笑む姿が目に浮かびます。