Googleのアドセンス広告を表示しています

文宗の家系図【王妃に恵まれなかった薄幸な王】

文宗は世子の時代に3人の妃を迎えました。

しかし、世子嬪不在のまま王になり、生涯王妃を持つことはありませんでした。

薄幸な王・文宗について家系図から詳しくご紹介します。

 

文宗の家系図

文宗の曾祖父は朝鮮王朝を建国した太祖(李成桂)です。

父親は朝鮮王朝で聖君と称され、現在でも人々に最も尊敬される第3代王・世宗です。

母親の昭憲王后は朝鮮時代に多くの政府高官を輩出している名門氏族・青松沈氏の出身です。

<文宗の家系図>

 

【PR】スポンサーリンク

文宗はどんな王だったのか?

小さい頃から学問が好きで、天文、易学、算術、書道、軍政に関心がありました。

性格は素直でしたが、女性にはあまり関心がなく、大変慎重な人物だったようです。

世宗の性格を受け継ぎ、勤勉で温厚、辛抱強く、臣下の信頼も厚かったといいますが、

短命で在任期間も短く、ドラマでは病弱な王として描かれる場合が多いようです。

 

文宗のプロフィール

第5代国王
在位:1450年2月22日-1452年5月14日
諱:李珦(イ・ヒャン)
字:輝之(フィジ)
諡号:恭順欽明仁粛光文聖孝大王
廟号:文宗
生年:1414年10月3日
没年:1452年5月14日
享年:39歳
父:世宗
母:昭憲王后沈氏
王妃:顕徳王后權氏
陵墓:顕陵

 

後に争い合う文宗の兄弟

文宗は世宗を父、昭憲王后を母とする8男2女の長男でした。

弟の首陽大君は、後に息子の第6代王・端宗の王位を略奪、第7代王に就いた世祖です。

端宗の行く末を臣下に託した文宗ですが、端宗をめぐる兄弟同士の争いが歴史に残るほど悲惨になるとは思ってもみなかったことでしょう。

関係 称号 名前 生年-没年 備考
世宗 李裪 1397-1450 第4代王
昭憲王后 不詳 1395-1446
貞昭公主 不詳 1412-1424
貞懿公主 不詳 1415-1477
首陽大君 李瑈 1417-1468 第7代王・世祖
安平大君 李瑢 1418-1453
臨瀛大君 李璆 1420-1469
広平大君 李璵 1425-1444
錦城大君 李瑜 1426-1457
平原大君 李琳 1427-1445
永膺大君 李琰 1434-1467

 

【PR】スポンサーリンク

文宗の家族

文宗は王妃不在のまま王位に就きましたが、短命だったこともあり、存命中最後まで正室を持つことはありませんでした。

顕徳王后は世子嬪の時に亡くなりましたが、文宗が王位に即位したときに王妃に追尊されました。

<文宗の家族>

関係 名前 子供 備考
正室 徽嬪金氏 子女なし 世子嬪廃位
純嬪奉氏 子女なし 世子嬪廃位
顕徳王后 1男1女 敬恵公主 鄭悰の正室
端宗 第6代王
側室 粛嬪洪氏 1女 翁主
承徽鄭氏 1男 王子
司則楊氏 2女 敬淑翁主 姜子順の正室
翁主
淑儀文氏 子女なし
宮人張氏 1男 王子

 

王妃に恵まれなかった薄幸な王

文宗は世子の時代に3人の妃を迎えますが、最初の2人は妃としてあるまじき行為から世宗に廃位されてしまいます。

また、最後の妃は後の第6代王・端宗を生むとすぐに亡くなってしまうなど、文宗は女性には恵まれない国王でした。

在位2年、39歳で亡くなった文宗は生涯、王妃を持つことはありませんでした。

 

世宗に嫌われ追放された徽嬪金氏

文宗が最初に迎えた世子嬪は金五文の娘の徽嬪金氏でした。

当時、文宗は14歳、徽嬪金氏は4才年上の18歳でした。

徽嬪金氏の父・金五文は文宗の祖父・太宗の側室 明嬪金氏の弟にあたります。

 

文宗は世子嬪の徽嬪金氏に全く関心を持つことはありませんでした。

そのため、徽嬪金氏は文宗の寵愛を得るために様々な呪術を使ったと言われています。

 

儒教を信じる世宗にとって呪術は毛嫌いするほど嫌いなもの、徽嬪金氏は廃位され宮殿から追放されてしまいます。

実家に戻った徽嬪金氏は両親と共に自害したと言われています。

 

嫉妬から堕落した純嬪奉氏

文宗は二人目の妻として奉礪の娘の純嬪奉氏を妃に迎えました。

しかし、純嬪奉氏もまた、最初の妻同様に文宗の関心を引くことはできませんでした。

 

世子に子供ができないことを心配した世宗は3人の女性を側室に選び、文宗のもとに送り込みました。

その中の一人、權氏が妊娠したことを知ると、慌てた純嬪奉氏は「妊娠した」と偽りますが、すぐにバレてしまいました。

 

これ以降、純嬪奉氏は嫉妬から奇怪な行動をしたり、酒浸りの生活を送り始めました。

更に、最後は侍女と淫らな関係をもつなど、生活は乱れに乱れたといいます。

それを知った世宗は激高、純嬪奉氏も宮殿から追放してしまいました。

 

王妃になれなかった顕徳王后

顕徳王后は世宗により、側室として送り込まれた3人の女性の一人です。

長女は早世しましたが、1436年に敬恵公主を生んでいます。

 

顕徳王后は、2番目の妃の純嬪奉氏が廃位されると世子嬪に冊封されました。

1441年、後の国王の端宗を生みますが、翌日に逝去、王妃になることはありませんでした。

「顕徳王后」は1450年に文宗が王位に即位したときに追尊された称号です。

 

文宗の生涯

1414年、文宗は世宗と昭憲王后の間に長男として生まれました。

父親の世宗に似て、幼少の頃から読書、学問が好きで、大変な勉強家でした。

1421年、文宗は8歳で王世子となります。

 

不幸な結婚生活

1427年、文宗は14歳の時に4歳年上の徽嬪金氏と結婚しましたが、徽嬪金氏には全く関心を示しませんでした。

その結果、徽嬪金氏が呪術で文宗の気を引こうとしましたが、世宗に知られ、廃位されてしまいます。

結婚から2年後の1429年7月のことでした。

 

次に妃として、迎えられたのが純嬪奉氏でしたが、二人の間には子供はできませんでした。

更に、心配して世宗が送り込んだ側室に子供が生まれ、純嬪奉氏は嫉妬から奇行に走り、世宗に廃位されてしまいます。

 

第6代王・端宗の誕生

世宗が送り込んだ側室の一人である権氏(後の顕徳王后)に待望の男の子が生まれました。

後の第6代王となる端宗です。

しかし、第6代王・端宗の母・権氏は端宗を生むと3日後に亡くなってしまいました。

 

文宗の摂政

以前から健康状態の良くなかった世宗は糖尿病が悪化して、政治を行うことが困難になってきました。

そこで、1437年、文宗に摂政を譲渡しようとしましたが、臣下から猛烈な反対にあいます。

一度は諦めましたが、益々、悪化する病状に、1442年、遂に世宗は臣下の反対を押し切り、文宗に摂政を任せました。

 

文宗の即位と逝去

1446年3月24日に、母親の昭憲王后が亡くなると、4年後に1450年2月17日に父親の世宗が54歳で亡くなりました。

文宗は1450年2月22日に第5代国王として即位しました。

しかし、国王として功績を残す前に、1452年5月14日、文宗は在位2年、39歳で亡くなってしまいます。

 

まとめ

文宗は世子の時代に3人の世子嬪を迎えますが、二人を廃位されるという不遇を味わっています。

また、息子の端宗を生んだ顕徳王后も出産後に亡くなりました。

文宗自身、在位2年で亡くなり、生涯、王妃を持つことはありませんでした。

まさに、文宗は「王妃に恵まれなかった薄幸な王」でした。

 

error: Content is protected !!