ドラマ「太宗イ・バンウォン」で描かれた怪物のような王・イバンウォン(李芳遠)その姿は史実とどれほど一致しているのか?
この記事では、朝鮮王朝史上、最も恐れられた王・太宗(イバンウォン)の実話に基づく生涯を、王子の乱、粛清、そして、建国の裏側まで徹底的に解説。人間・イバンウォンの実像に迫ります。
- 高麗から朝鮮へ|威化島回軍(クーデター)の勃発
- 回軍による家族の危機と脱出
- 禑王の廃位と昌王の擁立
- 昌王の廃位と恭譲王の擁立
- 科田法による内政改革
- 鄭夢周の殺害
- 朝鮮王朝の建国
- 高麗の滅亡|高麗王族の殺害
- 世子の擁立|末っ子の李芳碩が世子に
- 李芳遠が明の使臣として功績を上げる
- 大儒学者・李穡(イ・セク)の死
- 神徳王后の突然の逝去
- 第一次王子の乱
- 第二次王子の乱
- 朝鮮第3代王・太宗の誕生
- 太祖の咸興での反抗的隠居
- 趙思義(チョサイ)の乱
- 閔氏一族の粛清|外戚の政治介入を遮断
- 功臣の粛清|国家を私物化を排除
- 世子・譲寧大君の廃位
- 朝鮮第4代王・世宗の誕生|太宗の譲位
- 沈氏一族の粛清|太宗の上王としての政治介入
- 太宗の最期
- まとめ|太宗が世宗に残したもの
高麗から朝鮮へ|威化島回軍(クーデター)の勃発
1388年5月22日、李成桂(イソンゲ)は遂に王命にそむき、軍隊を威化島から帰還させることを決意しました。威化島回軍(ウィファドフェグン)です。その背景と結末は次のとおりです。
<遼東遠征と威化島回軍の行程>
李成桂と曹敏修の軍は遼東遠征の途中、大雨で川を渡れず威化島で足止めされ、兵の疲労や脱走、食糧不足で壊滅寸前に陥っていました。李成桂は帰還を度々求めましたが、崔瑩は応じませんでした。
5月22日、やむなく回軍を決断した李成桂は、6月1日に開京へ戻り、王宮を包囲します。王に崔瑩の処罰を要求しましたが拒否されたため、6月3日に東西の門から進軍し、崔瑩の軍を破って禑王と崔瑩を拘束しました。
国が荒廃し、飢餓が蔓延していた高麗では、すでに国王は民心を失い、新しい王を期待していました。李成桂の「威化島回軍」は民の喜びの声で迎えられたのです。崔瑩は捕らえられ、島流しの上、後に処刑されました。
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禑王は、李成桂らを遼東遠征させる際に、反乱に備えて武将らの家族を人質としました。李成桂の息子も人質となりましたが、回軍が始まると全員脱出しています。
朝鮮王朝実録には次のように記録されています。
是夜, 上王與其兄芳雨及李豆蘭子和尙等, 自成州 禑所, 奔于軍前, 禑日午猶未知
<引用元:太祖実録 総序抜粋>
注)上王とは李芳果(後の定宗)のことです。太祖実録の編纂時期には上王となっていました。
また、この時、官職にあった李芳遠は回軍の知らせを受けると、開京に残っていた継母や異母兄弟をいち早く救出させています。
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崔瑩は流刑となり、禑王も名目上の王として生かされていました。彼は李成桂殺害を計画しましたが、失敗に終わり、上王の称号で江華島に追放されました。事実上の廃位です。
朝鮮王朝実録には次のように記録されています。
禑夜與宦竪八十餘人, 被甲馳至太祖及曺敏修、邊安烈第, 以皆屯軍門外不在家, 故不得害而還
<引用元:太祖実録 総序抜粋>
後継を巡る混乱の中、曹敏修が李穡とともに李成桂の反対を押し切り、息子の昌王(当時9歳)を擁立します。第33代王・昌王の誕生です。
曹敏修は全国の軍事権を掌握しますが、わずか1か月後、趙浚の弾劾により流刑となり、李穡も追放されました。
昌王の廃位と恭譲王の擁立
李成桂と易姓革命派は禑王は辛旽(シンドン)と般若(パニャ)の子であり、昌王も正統な王位継承者ではないと主張しました。「廃仮立真」です。
昌王は流刑となり、昌王を擁立した王朝擁護派の李穡も流罪となりました。その後、昌王とその父・禑王は流刑地で処刑されています。
1389年、易姓革命派は高麗第20代王・神宗の子孫である恭譲王を擁立します。
科田法による内政改革
田柴科制度で官僚に与えられた土地は私有化が進み、旧勢力の経済基盤となって国家財政を圧迫していました。李成桂派はこれを改め、土地を国家に戻して再配分する科田法を推進しました。
1391年、遂に法制化に成功。これにより、旧勢力は弱体化。新興官僚が税を受け取る権利(収祖権)を得て、朝鮮王朝の基盤が築かれました。
鄭夢周の殺害
李成桂の出世に期待を寄せた鄭道伝と鄭夢周は連携していましたが、新王朝を目指す鄭道伝と、高麗再建を望む鄭夢周は次第に対立します。
鄭夢周は鄭道伝を身分詐称で流刑にし、政敵の排除を図ります。1392年、李成桂が狩りで負傷すると、鄭夢周はこれを機に暗殺を企てますが、李芳遠に察知され失敗。逆に鄭夢周は李芳遠の側近・趙英珪により開京の善竹橋で殺害されました。
李成桂はこの行動に激怒し、鄭夢周の死を深く悼んだといわれています。彼は、多くの人の尊敬を集める鄭夢周を何とか仲間にしたいと考えていたのです。
朝鮮王朝の建国
恭譲王から李成桂への譲位を防ごうとした鄭夢周が殺害されると、形勢は一気に李成桂へと傾きます。1392年7月、鄭道伝ら易姓革命派が李成桂を国王に推薦、恭譲王が追放され、李成桂が朝鮮王朝初代国王に即位しました。初代国王・太祖の誕生です。
李成桂は当初、国王になることを拒否、官僚たちから「どうしてもと請われる形」を取りました。また、即位式では檀上の王座には上がらず、王座の下に立っています。
こうした李成桂の行動は、全て「王位を奪い取った簒奪者(さつだつしゃ)」と見られたくなかったからでした。
高麗の滅亡|高麗王族の殺害
李成桂は即位後の1394年、流刑中の恭譲王とその子を謀反の疑いで殺害しました。また、江華や巨済に流された多くの高麗王族も海に投げ込まれて処刑されています。
南孝温の「秋江冷話」には、王族を船に乗せて底に穴を開け、水死させたと記されていますが、実際にはそれほど手の込んだ方法ではなかったとも言われ、真相は不明です。
しかし、事実として朝鮮王朝は高麗復興を恐れ、王姓を持つ者の抹殺を命じています。多くの者は全氏・玉氏・田氏などに改姓して命を守ったとされています。こうして、威化島回軍から4年、高麗王朝は完全に滅び、李成桂が王権を掌握したのです。
世子の擁立|末っ子の李芳碩が世子に
誰もが朝鮮王朝の建国に大きな功績を残した李芳遠が世子になると考えていました。ところが太祖は、第二夫人・神徳王后の次男である李芳碩を世子に指名します。
さらに、開国の功臣である鄭道伝(チョン・ドジョン)と南誾(ナム・ウン)をその教育係に任命しました。神徳王后が裏で影響を及ぼしたことは明らかです。
わずか10歳の義弟に世子の座を奪われた李芳遠の怒りは計り知れず、その後、神徳王后の墓に対して彼がとった態度からも、その感情がうかがえます。
李芳遠が明の使臣として功績を上げる
1394年6月、李芳遠が明への使臣に任命されました。
上謂殿下曰: “天子若有所問, 非汝莫能對
<引用元:太祖実録1394年6月1日から抜粋>
太祖は「皇帝の問いに答えられるのは汝しかいない」とその適任ぶりを強調します。ドラマのセリフでも使われた言葉です。
危険を案じた南在が同行を申し出、趙胖らとともに「国号と王の称号に関する表文」を携えて明へ向かいました。
同年11月、李芳遠は大きな成果を持ち帰国。明の皇帝はその見識と態度に深く感銘を受け、厚く遇したといいます。李芳遠は「朝鮮の世子」と誤認されるほど高く評価されました。
南在はこの功績で李芳遠の信任を得て、後に領議政となります。
大儒学者・李穡(イ・セク)の死
李穡(イ・セク)は鄭夢周が殺害される前年に流刑から釈放され、韓山府院君に封じられていました。
しかし、1392年に鄭夢周が殺害されると、衿州に追放後、再び、驪興、長興に流刑にされ、その後解放されています。1395年、李穡の能力を惜しんだ太祖が韓山伯に冊封、朝廷への出仕を命じましたが、辞退しています。
翌年の1396年、李穡は驪江に向かう途中で亡くなりました。享年69歳でした。
李穡は朝鮮における性理学の発展に大きく寄与、鄭夢周、鄭道伝、河崙 、権近などの優秀な学者を育てた偉大な儒学者でした。
神徳王后の突然の逝去
1396年、神徳王后は体調を崩して、突然亡くなりました。突然の訃報に悲しみにくれた李成桂は聚賢坊に王妃陵を設けて,陵号を貞陵と定めました。
太祖は在位中だけでなく、譲位以後も、貞陵によく行き追慕を絶やさなかったといいます。また、神徳王后の供養のために、太祖は1年かけて興天寺を建設しています。
一方、前妻韓氏の陸墓・斉陵へは行くことはありませんでした。こうした太祖の行動が太宗の神徳王后への恨みを増幅したことは間違いありません。
第一次王子の乱
1398年、李芳遠は弟・李芳碩が世子となり、鄭道伝が権力を握る状況に危機感を募らせ、第一次王子の乱を起こします。明への対抗策として鄭道伝が私兵の吸収を図ったことが発端でした。
父・太祖が病床、母・神徳王后が死去していた好機に、李芳遠は鄭道伝・李芳碩らを粛清。義弟・興安君を含む十数名を殺害しました。更に、李芳遠は鄭道伝を逆賊と断じ、その名を歴史から抹消しようとしました。
・鄭道伝(チョンドジョン)
・南誾(ナムウン)
・沈孝生(シムヒョセン)
・李懃(イブン)
・張至和(チャンジファ)
・李芳蕃(李芳遠の異母弟)
・李芳碩(世子、李芳遠の異母弟)
・興安君(異母妹・慶順公主の夫)
・鄭泳(鄭道伝の次男)
・鄭遊(鄭道伝の三男)
太祖の娘・慶順公主は夫の興安君を失い出家の道を選んでいます。ドラマ「イ・バンウォン」では、尼になるため、慶順公主が実際に頭を剃るシーンが話題になりました。
事件後、太祖は落胆。王位を次男・李芳果(後の第2代王・定宗)に譲って隠居しています。
第二次王子の乱
国王は李芳果(定宗)ですが、権力は李芳遠が掌握していました。
以前から李芳遠をよく思っていなかった四男の李芳幹が、私兵の廃止や論功行賞の不満から遂に反乱を起こしました。1400年1月の第二次王子の乱です。
この時、協力したのが同じく論功行賞に不満を持っていた朴苞(パクポ)でした。反乱は李芳遠により、あっけなく鎮圧されてしまいます。
朴苞は処刑され、李芳幹は処刑は逃れましたが生涯流刑地を転々とすることになりました。このとき、李芳幹の息子の李孟宗(イ・メンジョン)も反乱に参加していましたが、同じく流刑となり、世宗のときに自決させられています。
朝鮮第3代王・太宗の誕生
第二次王子の乱で政敵を排除した李芳遠は、1400年に世子に冊立され、国政と軍事の実権を掌握します。定宗実録には「靖安公(李芳遠)を王世子とし、軍と国家を任せる」と明記されています。
己亥/冊立弟靖安公 【諱】 爲王世子, 句當軍國重事
<引用元:定宗実録1400年2月4日>
世子ながら李芳遠は私兵の廃止や官制改革を断行し、反対者は容赦なく処罰していきました。定宗と妃・定安王后は身の危険を感じ、同年11月、定宗は譲位を決断。李芳遠は第3代国王・太宗として即位しました。
即位後は六曹直啓制を導入し、王が議政府を通さず六曹(行政)を直接統制できる仕組みを構築。中央集権を推し進め、王権の絶対化を図りました。
反発した大臣らにも容赦なく処罰を下し、冷酷な王、怪物という太宗のイメージが定着していきます。
太祖の咸興での反抗的隠居
太祖は表向きには神徳王后とその子供の供養に専念するとしていました。しかし、太宗への恨みは消えず、王権の象徴である玉璽を持ったまま北部の咸興(ハムン)に引きこもってしまいます。
<太祖が引きこもった咸興>
政権移譲の正当性を示したい太宗はたびたび使者を送り説得を試みますが、太祖は頑として応じませんでした。さらに、咸興に送られた使者が戻らず殺害されたという噂まで広まり、「咸興差使(ハムンチャサ)」という言葉が「行って戻らぬこと」の慣用句になるほどでした。ただし、実際に使者が殺害された記録はありません。
趙思義(チョサイ)の乱
1402年、太宗の説得を拒み続ける中、神徳王后の親戚である安辺府使・趙思義(チョサイ)が、彼女の恨みを晴らすとして挙兵しました。
この反乱は太祖が背後にいたとも噂されましたが、真偽は不明です。反乱軍は一時善戦するも、李叔蕃らの活躍で鎮圧され、趙思義らは処刑されました。
その後、無学大師の説得により太祖は都に戻り、政界から身を引いて余生を送り、1408年に亡くなりました。
閔氏一族の粛清|外戚の政治介入を遮断
太宗は、王妃・元敬王后の実家である閔(ミン)氏一族が強大な勢力を持つことに強い危機感を抱いていました。かつて自身を王位に就けた閔氏の権力と財力が、即位後の太宗にとっては脅威へと変わったのです。
そこで太宗は、元敬王后の4人の弟たちを様々な口実で次々と粛清しました。1407年には閔無咎と閔無疾を流刑とし、1410年には流刑先で賜死させました。さらに1416年には閔無恤と閔無悔を処刑。こうして、元敬王后一家の男系の血統は絶えてしまいました。
功臣の粛清|国家を私物化を排除
太宗は王権強化のために外戚の粛清を行ってきましたが、開国功臣に対しても必要とあれば容赦なく粛清を実施しました。
太宗の右腕として活躍した李叔蕃(イ・スクボン)も功臣の地位を利用した目に余る数々の横暴な行いにより、1417年慶尚道咸陽に流刑となっています。その後も、王権を脅かす外戚や功臣に対して、太宗は粛清の手を緩めることはありませんでした。
世子・譲寧大君の廃位
1418年、長男の譲寧大君が世子を廃され、三男の忠寧大君(後の世宗)が新たに王世子に冊封されました。
譲寧大君は幼い頃から学問に興味を示さず、遊びに明け暮れ、太宗を悩ませる存在でした。特に女性関係は乱れており、妓女を宮中に連れ込むだけでなく、伯父・定宗の寵愛を受けた楚宮粧や、重臣・郭旋の愛妾だった於里にまで手を出しました。
1417年、臣下たちが世子廃位を上訴し、太宗もこれを受け入れます。譲寧大君は処罰されなかったものの、政治の表舞台から退き、その後は王族の長老として多くの陰謀に関与することになります。
朝鮮第4代王・世宗の誕生|太宗の譲位
1418年6月に世子になった忠寧大君は、9月に太宗が譲位して上王になると国王として即位しました。後世に名君と称される第4代王・世宗の誕生です。
譲位した太宗は表向きは軍事権だけ握ったことになっていますが、実態は政治をはじめ全ての実権は太宗が掌握していました。世宗の親政は太宗が亡くなる1422年まで待つことになります。
沈氏一族の粛清|太宗の上王としての政治介入
太宗は、自らの妻・元敬王后の実家だけでなく、息子・世宗の王妃である昭憲王后の実家・沈(シム)氏一族までも没落させました。
昭憲王后の父・沈温は世宗の即位とともに領議政となりますが、外戚の台頭を警戒した太宗により、1418年に濡れ衣を着せられ処刑されます。沈温が明へ使者として出発する際、多くの親族に見送られたことが太宗の疑念を深めたとされ、帰国途中で捕らえられ命を落としました。
弟の沈泟も拷問の末に処刑され、他の兄弟も流刑に。王妃の母と兄弟も奴婢にされるなど、沈氏一族は徹底的に排除されました。沈温は誠実な人物で、権力を狙う意志など全くなかったと伝えられています。
沈温が冤罪で処刑された「姜尚仁の獄事」は>>沈温の家系図【姜尚仁の獄事で処刑された世宗の義父】で詳しくご紹介しています。
太宗の最期
1422年5月、太宗は寿康宮にて病死しました。享年55歳でした。現在、太宗は1420年に亡くなった王妃の元敬王后とともに献陵に眠っています。
太宗は朝鮮王朝の歴代王の中でも冷徹さと非情さで知られる存在として記憶されています。しかし、彼が築いた制度と政治体制は、500年続く朝鮮王朝の礎となりました。
「王にして怪物」、この言葉は、まさに功と罪を併せ持つ彼の生涯を象徴していると思われます。
まとめ|太宗が世宗に残したもの
第3代王・太宗(イ・バンウォン)は建国と王権確立のために多くの血を流しました。残忍な粛清によって政敵を排除し、強力な中央集権体制を築き、500年に及ぶ朝鮮王朝の基礎を築き上げたのです。
太宗を引き継いだ世宗は、彼は独自の政策を次々と打ち出し、数々の偉業を成し遂げました。世宗は「聖君」と称され、後世に多大な影響を与えた名君として高く評価されています。
しかし、その輝かしい治世は、暴君と呼ばれる太宗の苛烈な政治によって築かれた土台の上にあったことも否定できません。