恭愍王(コンミンワン)は、元王朝からの脱却を目指した第31代高麗王でしたが、元の皇女・魯国公主を妃に迎え、彼女を深く愛したことでも知られています。
この記事では、恭愍王の家系図をもとに、王族の血統、魯国公主との結婚、反元政策、辛旽との関係など、生涯の重要な出来事を詳しく解説します。
恭愍王の家系図
恭愍王は第28代王・忠恵王の二人の息子(忠穆王・忠定王)の後を継いで王位に就きました。
第25代王・忠烈王→第26代王・忠宣王→第27代王・忠粛王(父)→恭愍王 と続く
高麗の王統を受け継ぐ正統な王でした。しかし、恭愍王の死後、その王統は大きく揺らぐことになります。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<恭愍王の家系図>
妃・魯国公主の家系
第25代王・忠烈王の時代以降、高麗王子は元の都で生活し、元皇族の女性を王妃として迎える慣習が続きます。これは、元皇室と婚姻関係を結ぶことで政治的な結びつきを強める「附馬制度」と呼ばれるものでした。
恭愍王の妃・魯国公主はボロト・テムルの娘で、元朝の初代皇帝・クビライを始祖とする元皇族の出身でした。恭愍王が元に滞在していたとき、婚礼を行い、即位すると王ともに高麗に帰国しています。
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恭愍王は、元王朝からの独立を目指した強い意志を持つ国王でした。
しかし、妻の魯国公主がようやく懐妊したものの難産で亡くなると、恭愍王は深い悲しみに沈みます。
その時の様子を高麗史では次のように記しています。
王手寫公主眞,日夜對食悲泣,三年不進肉膳
<高麗史八十九,列伝第二,后妃二>
恭愍王は超大国に挑む反骨精神がある一方で、繊細でか弱い精神の持ち主でした。
恭愍王のプロフィール
恭愍王は絵画や書にも優れた才能を発揮した王でした。現存する作品としては、馬に乗って野原を疾走する武士を描いた「天山大猟図」が知られています。
第31代高麗国王
初名:祺(チョン)
生年:1330年5月6日
没年:1374年9月22日(享年45歳)
在位:1352年1月14日-1374年10月27日
諡号:恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王
父:忠粛王
母:明徳太后
陵墓:玄陵
恭愍王の家族
1365年、魯国公主は難産で亡くなり、そのときの子も死産したと伝えられています。
恭愍王には後に王禑(禑王)という息子がいましたが、『高麗史:列傳第四十六 辛禑一』と『太宗実録:太宗3年11月15日』では辛旽の子と記しています。
これらの史料は高麗王朝が滅亡し、朝鮮王朝建国後に編纂されたことから信憑性に欠けるとの指摘もありますが、禑王の出生問題は李成桂が禑王を廃位する口実の一つとなりました。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 忠粛王 | 1294-1339 | 第27代高麗王 |
| 母 | 恭元王后 | 1298-1380 | 明徳太后、高麗出身 |
| 正室 | 魯国公主 | 不詳-1365 | 宝塔失里(ブッダシュリ) |
| 側室 | 恵妃李氏 | 不詳-1408 | |
| 益妃韓氏 | 生没年不詳 | ||
| 慎妃廉氏 | 生没年不詳 | ||
| 定妃安氏 | 不詳-1428 | 王の死後、大妃と称される | |
| 宮人韓氏 | 不詳-1376 | 順静王后と追尊 | |
| 般若 | 不詳-1376 | 禑王の生母 | |
| 長男 | 牟尼奴 | 1365-1389 | 第32代王・禑王 |
禑王の幼名は牟尼奴(モニノ)です。
恭愍王の兄・忠恵王
忠恵王は世子の時代から常識外れの乱行で歓楽にふけ、即位後も政事を放棄したまま狩猟や遊興に明け暮れた王として知られています。
ドラマ「奇皇后」ではスンニャン(奇皇后)の愛したワンユのモデルとして登場しましたが、あまりにも史実と違う人物と批判を浴び、脚本家が途中から「ワンユは仮想の人物」と説明するほどでした。
詳しくはこちら>>奇皇后のワンユは実在した忠恵王【架空化の理由とは?】
恭愍王の生涯
恭愍王は高麗第31代王として即位すると、元王朝の支配からの脱却を目指して反元政策と国内改革を推進しました。彼は奇氏一派の粛清や領土回復を進めますが、最愛の魯国公主の死を契機に政治への関心を失い、晩年は統治が混乱しました。
1374年、在位23年で突然逝去。恭愍王の生涯は、改革への挑戦と挫折が交錯した激動の歩みだったといえます。
詳しくは次の記事で紹介しています。

まとめ
恭愍王は高麗王統を受け継ぐ正統な王として即位しました。元王朝からの自立を目指して反元政策を推し進め、奇氏一族の粛清や双城総管府の奪回など大きな改革を断行します。
しかし、愛する魯国公主の死後、政治は次第に停滞し、反元改革は道半ばで頓挫しました。死後は息子・禑王が即位しますが、その血統問題は王位の正統性を揺るがし、やがて高麗王朝滅亡から朝鮮王朝建国へと続く王朝交代の一因となりました。