仁烈王后にとって、王妃の座は「青天の霹靂」でした。
仁烈王后とはどんな王妃だったのか。
家系図から詳しく調べてみました。
仁烈王后の家系図
仁烈王后は韓国でも大きな氏族である清州韓氏一族の出身でした。
清州韓氏の始祖は箕子朝鮮の王族の血を引く、高麗の大功臣である韓蘭(ハン・ラン)です。
<仁烈王后の家系図>
清州韓氏からは5人の王妃を輩出しています。
王妃にはなれませんでしたが、懿敬世子の妃であった仁粋大妃も清州韓氏の出身です。
神懿王后(太祖の正室)
章順王后(睿宗の正室)
恭恵王后(成宗の正室)
安順王后(睿宗の継室)
仁烈王后(仁祖の正室)
<清州韓氏出身の妃>
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仁烈王后はどんな王妃だったのか?
長年、内助の功で夫を支えてきた仁烈王后は本当に気配りのきく人だったといいます。
仁烈王后のプロフィール
在位:1623年3月14日-1636年12月9日
諡号:正裕明徳貞順仁烈王后
生年:1594年7月1日
没年:1635年12月9日
享年:42歳
夫:仁祖
氏族:清州韓氏
父親:韓浚謙
母親:檜山府夫人 昌原黄氏
埋葬:長陵
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仁烈王后の家族
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 韓浚謙 | 1557-1627 | 西平府院君 |
母 | 檜山府夫人 | 1561-1594 | 黃珹の娘、昌原黄氏 |
義父 | 定遠君 | 1580-1620 | 宣祖の庶五男、元宗に追尊 |
義母 | 連珠府夫人 | 1578-1626 | 具思孟の娘、仁献王后に追尊 |
夫 | 仁祖 | 1595-1649 | 第16代王 |
長男 | 昭顕世子 | 1612-1645 | |
次男 | 鳳林大君/孝宗 | 1619-1659 | 李淏、第17代王 |
三男 | 麟坪大君 | 1622-1658 | 李㴭 |
四男 | 龍城大君 | 1624-1629 | 李滾 |
五男 | 不詳 | 1628-1629 | 早世 |
六男 | 不詳 | 1635-不詳 | 早世 |
長女 | 不詳 | 1626-不詳 | 早世 |
謎の死を遂げた昭顕世子
仁祖が清に降伏すると、王子の昭顕世子、鳳林大君とその家族は人質として清に送られました。
清に対して反感を募らせた鳳林大君とは違い、昭顕世子は清の文明の高さに驚愕します。
そこで、昭顕世子は清との親睦を深め、文化の吸収に務めました。
しかし、そんな昭顕世子を清を敵しする仁祖は面白くありませんでした。
朝鮮に戻り、清の素晴らしさを語る昭顕世子対して、激怒、酷く冷たい態度を取りました。
そして、何と昭顕世子は、帰国後、たったの2月後に謎の急死をしてしまいます。
昭顕世子について詳しくは>>

なお、仁烈王后は清に降伏する2年前に亡くなっており、この事件を知ることはありませんでした。
父・韓浚謙は遺教七臣の1人
韓浚謙は宣祖から永昌大君のことを託された7人の家臣(遺教七臣)の1人でした。
光海君を支持した李爾瞻、鄭仁弘ら大北派は政治基盤を確固たるものとするために、政敵の排除にかかりました。
1613年、韓浚謙は永昌大君を擁立しようとした濡れ衣を着せられて流刑(故郷に幽閉)されています。
その後、減刑されて流刑地を転々としますが、1621年、倭寇の侵略に対して、流刑地で国防の警備を任ぜられました。
1623年、娘が王妃になると復位、西平府院君に封じられています。
このとき、韓浚謙は既に67歳でした。
仁烈王后の生涯
1594年、仁烈王后は韓浚謙の娘として江原道原州で生まれました。
綾陽君(後の仁祖)との結婚
1610年、仁烈王后は定遠君の長男・綾陽君と結婚します。
定遠君は、宣祖と寵愛した側室・仁嬪金氏の間にできた子供です。
1612年1月、仁烈王后が19歳の時に長男の李(昭顕世子)が生まれています。
夫の実家の悲劇
1615年、夫の実の弟である綾昌君が謀反の罪で流刑となり、流刑地で自決する事件が起こります。
その知らせを聞いた義父・定遠君も悲しみのあまり亡くなってしまいました。
夫に害はありませんでしたが、生活は苦しくなり仁烈王后は宝飾品の全てを手放して急場を凌いだといいます。
苦しい生活でしたが、1619年に次男の李淏(鳳林大君/孝宗)、1622年に三男の李㴭(麟坪大君)が生まれています。
仁祖反正が勃発
1623年3月13日、クーデター(仁祖反正)が起こり、光海君が廃位されました。
夫の綾陽君は第16代王・仁祖として即位、仁烈王后は王妃になりました。
翌年の1624年に四男の李滾(龍城大君)が生まれ、1625年には長男の李が王世子に冊封されています。
しかし、順風な生活も長くは続きませんでした。
仁烈王后の最後と朝鮮の敗北
仁祖が即位後、後金(後の清)の侵略が始まりました。
1627年、後金の激しい侵略に耐えきれず、朝鮮は後金と和議に応じて盟約を結びました。
この年、父の韓浚謙が71歳で亡くなっています。
後金との緊張関係が続く中、1635年12月、仁烈王后は42歳の高齢で出産を迎えます。
しかし、子供は死産、彼女も亡くなってしまいました。
その2年後に、朝鮮は清(後金)に敗北、息子たちは人質に取られています。
まとめ
クーデターによる夫の即位で、突然、王妃になったことは、仁烈王后にとって「青天の霹靂」だったことでしょう。
しかし、仁祖が即位後は、後金の侵略が始まり、戦下の中の生活となりました。
屈辱的な敗北と息子の謎の死を知ることがなかったことは、仁烈王后にとっては唯一の慰めかもしれません。
現在、仁烈王后は仁祖とともに京畿道坡州市にある長陵(チャンヌ)に眠っています。