奇皇后に登場するワンユのモデルは、当初、実在した忠恵王でした。
しかし、実在の忠恵王は凶暴で女好き
歴史歪曲とまで言われ、放送前に慌てて脚本家が「架空の人物」に変更してしまいました。
それほど批判を浴びた忠恵王とは、どんな人物だったのか。
詳しくご紹介します。
ワンユのモデルは実在した忠恵王
ワンユのモデルは当初、高麗の第28代王・忠恵王でした。
実在した忠恵王はどんな王だったのか、家系図から調べてみました。
忠恵王の家系図
ワンユのモデル・忠恵王は第27代王・忠粛王と明徳太后(恭元王后)の長男です。
1315年に忠恵王が生まれますが、1316年、父親の忠粛王は元の皇族の娘・濮国長公主を正妃として迎えることになります。
このため、忠恵王の母親・明徳太后は第2妃となってしまいました。
しかし、忠粛王は明徳太后を寵愛し続けました。
<忠恵王の家系図>
第27代王・忠烈王の頃から元の皇族の娘をもらう慣習が続いているため、高麗王の正妃はモンゴル人で占められています。
忠恵王も元の初代皇帝クビライのひ孫・チョスパルの娘・憐真班(イリンチンバル)と結婚しています。
亦憐真班(イリンチンバル)は徳寧公主のモンゴル名です。
王暠と忠恵王の関係
ドラマ「奇皇后」にはワンユと敵対するワンゴが登場します。
ワンゴのモデルは実在した王暠(ワン・ゴ)ですが、忠恵王から見ると叔父さんに相当します。
王暠の父親の江陽公王滋は忠烈王の次男であり、本来であれば王位を継ぐべき人でした。
王暠の兄は出家しています。
ところが、忠烈王が元より王妃を迎えたため、江陽公王滋の母親は第2妃となってしまいます。
このため、父親の江陽公王滋は王座から外れ、その息子である王暠の王位の道は閉ざされてしまいました。
王暠がドラマ「奇皇后」で執拗に王位を狙う背景にはこのような事情があったのです。
忠恵王のプロフィール
忠恵王はひどく凶暴な性格で、大変女好きだったと言われています。
ドラマ「奇皇后」の14話で尚宮が忠恵王のことを「凶暴で女好き」と皇后に説明しています。
このセリフのネタは史実の忠恵王からきていると思われます。
忠恵王(チュンヘワン)
第28代高麗王
在位:1330年2月18日-1332年3月21日
1339年12月2日-1344年1月30日
姓・諱:王禎(ワン・ジョン)
モンゴル名:普塔失里(ブタジリ)
諡号:忠恵献孝大王
生年:1315年1月18日
没年:1344年1月15日
父:忠粛王
母:明徳太后
后妃:徳寧公主
禧妃尹氏
陵墓:永陵
忠恵王の家族
ドラマ「奇皇后」では、忠恵王はヨンチョル(エル・テムル)の姪と結婚しましたが、史実では初代皇帝クビライの玄孫である徳寧公主と結婚しています。
徳寧公主との間には、後の第29代高麗王の忠穆王が生まれています。
また、側室・禧妃尹氏との間に生まれた子供は第30代王・忠定王となりました。
関係 | 名前 | 子の名前 | 備考 | |
夫 | 忠恵王 | ー | ー | 第28代王 |
正妃 | 徳寧公主 | 1男1女 | 忠穆王 | 第29代王 |
長寧公主 | ||||
側室 | 禧妃尹氏 | 1男 | 忠定王 | 第30代王 |
銀川翁主林氏 | 1男 | 王釈器 | 謀反の疑いで処刑される | |
和妃洪氏 | 子女なし |
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放送前に架空の人物にされたワンユ
ドラマ「奇皇后」は放送前から、歴史の事実を歪めている(歴史歪曲)と批判されたドラマでした。
そのため、最初の画面に字幕で「奇皇后の物語をモチーフにしているが、実際の歴史とは異なる」旨を表示することになりました。
また、人物としてはワンユは当初、忠恵王をモデルとしていました。
しかし、あまりに史実の人物と違うという批判から、脚本家のチャン・ヨンチョルも「高麗の王も仮想の人物に変えた」と説明する羽目になりました。
史実では人間的に相当問題があったにも関わらず、脚本的に好人物として描いたためでした。
史実のワンユ(忠恵王)
ドラマのワンユは元からの独立を目指す正義感あふれる高麗王でした。
では、史実の忠恵王はどんな人物だったのでしょう。
忠恵王は若い頃から元で人質として暮らしていましたが、そのころから政治には興味がなく、狩猟や遊興に明け暮れていました。
国王になってからも、やりたい放題で国政はひどく乱れていきました。
しかし、
忠恵王が最も避難されるのは、常識はずれの乱交でした。
美し女性を見ると、近親関係、婚姻の有無、身分など全く関係なく自分のものにしたといいます。
特に、自分の父親である忠粛王の妃・慶華公主や寿妃権氏を強姦するに及んでは言語道断と批判されています。
酒に酔った勢いで慶華公主を襲った行為は歴史書「高麗史」に記録されているほどです。
偶然、奇皇后が存在した頃の高麗王が忠恵王であったことから、脚本家はワンユのモデルとして忠恵王を選んだのでしょう。
しかし、奇皇后の恋の対象としてはあまりにも酷い王だったと言えます。
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ワンユが元の臣下のように扱われる理由
ドラマ「奇皇后」ではワンユが高麗の王でありながら、元の皇帝や丞相ヨンチョルに臣下のように扱われていました。
これには、元と高麗の間の長い歴史が関連しています。
モンゴルによる高麗侵攻と全面降伏
1225年にモンゴルの使者が高麗で殺害される事件を契機に、1231年からモンゴルの高麗侵攻が始まりました。
高麗侵攻は1258年まで大きく9回に渡り行われ、高麗では数えきらないほど多数の死者がでました。
そして、1259年、遂に高宗はモンゴルに全面降伏し、これ以降、高麗はモンゴルの従属国となります。
一方、モンゴルでは1260年に後継争いに勝ったクビライが皇帝に即位、国号を元として初代皇帝になりました。
元の属国となった高麗
元の人質となっていた元宗は、父親の高宗の死後、帰国して即位しますが、親元政策を取らざるを得なくなります。
その結果、歴代国王は世子のときに元に人質となり、元皇帝の近辺での職務に従事します。
そして、皇帝や皇族の娘を娶り、前王が亡くなると帰国して、高麗王に就くのが慣例となりました。
このため、高麗王室は元朝を支える姻族のひとつとなり、「高麗駙馬王家」の称されました。
駙馬(ふば)とは、皇女の婿という意味です。
高麗王は元の臣下
姻族とは体の良い言葉で、実態は元の従属国、つまり臣下でした。
高麗王の権威は格下げされ、王名に「祖・宗」といった文字を使うことを禁止されます。
更に、王名に「元に忠誠を誓う」の意味で忠の文字が使われるようになりました。
第25代王・忠烈王から第30代王・忠定王まで6代に渡り、王名に「忠」と「王」の文字が使われているのはこのためです。
また、元は高麗の内政にも干渉したり、毎年、高麗に対して多くの貢物を要求しました。
高麗の女人たちを捧げさせた「貢女」も元から要求された貢物の一つでした。
奇皇后のワンユが世子のころに、貢女とともに人質として元に送られたことや、
ヨンチョルから廃位されたり、元の皇帝や高官から臣下のように扱われるのはこうした事情があったのです。
まとめ
ドラマ「奇皇后」に登場するワンユのモデルは当初、第28代高麗王の忠恵王(チュンヘワン)でした。
しかし、実在した忠恵王は歴史に残るほど乱暴で乱交を極めた王でした。
そのため、放送前に激しい批判を浴びてワンユは架空の人物に変えられてしまいました。
韓国時代劇では、史実に記録のないところは脚本家の想像により創作されることはよくあることです。
チャングムなど99%が創作と言われています。
しかし、多くのドラマは歴史歪曲はしていません。
史実を歪曲したことがドラマ「奇皇后」が多くの批判を浴びた理由と考えられます。
そうは言っても、物語の内容は素晴らしく、史実は度外視しても楽しめることは間違いありません。
韓国でも日本でも高視聴率をとり、今でも、常に人気ランキングの上位にいることがその証拠ですね。