ドラマ「薯童謠 (ソドンヨ)」に登場する威徳王とはどんな王なのか?
威徳王について詳しくご紹介します。
威徳王の家系図
威徳王は「帝王の娘スベクヒャン」に登場した第26代王・聖王の長男です。
威徳王の息子は、「薯童謠 (ソドンヨ)」では、武王として登場しますが、これは北史による家系図です。
<北史による威徳王の家系図>
三国史記では、武王は第29代王・法王の子として記録されていいます。
<三国史記による威徳王の家系図>
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威徳王はどんな王だったのか?
威徳王の関する記述は「日本書紀」が最も多く、「三国史記」「三国遺事」には具体的な記事はほとんど見当たりません。
従って、残念ながら現在では、威徳王の人柄を具体的に知ることはできません。
威徳王のプロフィール
日本書紀の記述に、威徳王がまだ王子の頃、兵士と一緒に行動していた記録があります。
威徳王が29歳のころの記録です。
このことから、威徳王が武術に長け、若い頃から戦に出て、兵士と共に戦う、勇敢で気さくな人柄だったと推測されます。
百済第27代王
生年:525年(日本書紀より推定)
没年:598年12月
享年74歳
在位期間:554年7月-598年12月
姓:扶余
諱:昌
父:聖王
母:不詳
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威徳王の家族
威徳王は第26代王・聖王の長男で、次男には威徳王の跡を継いで王となった第28代王・惠王がいます。
577年に威徳王は先立った王子のために王興寺を建設しています。
このことから、武王以外に王子がいたものと思われます。
なお、武王は三国史記では第29代王・法王の子と記述されています。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 聖王 | 不詳-600 | 第26代王 |
母 | 不詳 | 不詳 | |
本人 | 威徳王 | 525-598 | 第27代王 |
弟 | 惠王 | 不詳-599 | 第28代王 |
弟 | 琳聖太子 | 不詳 | |
王妃 | 不詳 | 不詳 | |
長男 | 璋 | 580-641 | 第30代武王 |
次男 | 王子 | 不詳 | 早世 |
威徳王の生涯
525年、威徳王は聖王の長男として生まれています。
威徳王が歴史書に初めて登場するのは、日本書紀に記述された553年の百合野の戦闘からです。
「冬十月庚寅朔己酉、百濟王子餘昌明王子、威德王也、悉發國中兵、向高麗國、築百合野塞、眠食軍士」
<引用元:日本書紀欽明十四年冬十月>
欽明天皇十四年は西暦553年です。
この時、余昌(威徳王)は高句麗軍と合戦を行い、大勝利しています。
管山城戦闘で聖明王が殺害される
554年12月、百済と新羅の間で有名な戦闘がありました。
管山城戦闘です。
余昌(威徳王)は重臣たちの進言を無視して、新羅討伐に向かいましたが、戦況が悪化します。
これを聞いた父の聖王は息子の余昌(威徳王)の助けに向かいますが、逆に敵に捕らえられてしまいました。
余昌(威徳王)は何とか脱出しましたが、聖王は殺害されてしまいます。
555年2月、余昌(威徳王)は日本に弟の恵を遣わして報告しています。
十六年春二月、百濟王子餘昌、遣王子惠王子惠者、威德王之弟也奏曰「聖明王、爲賊見殺。」
<引用元:日本書紀欽明十六年春二月>
罪悪感から出家を考える
余昌(威德王)は、自分のために亡くなった父に対する罪悪感から僧になることを考えました。
十六年八月、百濟餘昌、謂諸臣等曰「少子今願、奉爲考王、出家修道。」
<引用元:日本書紀欽明十六年八月>
しかし、諸臣たちに、国家のために王による祭祀の重要性を説かれて断念にています。
威徳王として即位する
聖王が亡くなってから、3年経った、557年3月1日、威徳王が王座に就きます。
十八年春三月庚子朔、百濟王子餘昌嗣立。是爲威德王。
<引用元:日本書紀欽明十八年三月>
561年7月、倭国や任那と呼応して新羅に攻め込みましたが、死者1000人を出す惨敗をしています。
使節による外交政策
威德王は中国に建国する国に対して、使節を送り、盛んに朝貢外交を進めました。
570年、北斉の後主に使節を送り「使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王」に封じられました。
571年には、北斉から「使持節・都督・東青州諸軍事・東青州刺史に封じられています。
北斉が滅び隋が興ると、すぐに隋に使節を送っています。
581年、隋に使節を送り、「上開府・儀同三司・帯方郡公」に封じられました。
更に、584年、586年に陳に遣使して朝貢した記録が残っています。
威徳王の最後
598年12月、威徳王が亡くなりました。
享年74歳でした。
冬十二月。王薨。羣臣議諡曰威德。
<引用元:三国史記 威德王 四十五年冬十二月>
威徳王が亡くなると、弟の恵王が即位しています。
まとめ
聖王の息子でありながら、威徳王の関する記述は大変少ないものでした。
しかも、その多くが日本書紀に見られるものです。
数少ない記録から推測できることは、威徳王が父・聖王を殺害された罪悪感を持って生涯を送ったであろうことです。
また、最も多くの記述が見られる日本書紀には、一人の王子を亡くした記録がありますが、武王の出生の記録がありません。
従って、ドラマ「薯童謠 (ソドンヨ)」のモデルになった武王が威徳王の息子なのか、真相は不明のままです。