純祖は名君・正祖の後を継いで即位しましたが、国王自ら政治を主導することができませんでした。なぜ国政の主導権を握れなかったのでしょうか。
この記事では、純祖の家系図を手がかりに、貞純王后の摂政や安東金氏による勢道政治など、統治を制約した史実を詳しく解説します。
純祖の家系図
純祖の父は朝鮮を代表する名君・正祖であり、曽祖父もまた名君と称される英祖です。このように、純祖は朝鮮王朝後期の多くの功績を残した王統を受け継いだ存在でした。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<純祖の家系図>
しかし、正祖の血統は息子・孝明世子が早世し、孫の憲宗で途絶えてしまいます。
これには、英祖の王妃・貞純王后による摂政と、純祖の妃・純元王后の実家である安東金氏が主導した勢道政治が深く関係しています。純祖の家系図を見ると、朝鮮後期に王権よりも外戚の力が強まっていく過程がはっきりと分かります。
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純祖は生涯、政治の主導権を握ることができませんでした。ここでは、その理由を探っていきます。
貞純王后による垂簾聴政
1800年、純祖が即位したときは、まだ11歳と幼く、英祖の妃・貞純王后が王大妃として純祖に代わり垂簾聴政を行い、実質的な政治権力を握りました。
この時期には貞純王后を支持する老論派によるカトリック弾圧が行われ、政敵勢力の粛清が進められます。正祖時代の改革路線は大きく後退しています。
政治方針は大きく転換しましたが、幼い純祖にはこれを制御する力はありませんでした。
安東金氏による勢道政治
1802年、純祖は安東金氏の中心人物・金祖淳の娘を王妃に迎えます。このとき、揀択が行われ、最後は貞純王后の一言で決まったことが純祖実録に記録されています。
行三揀擇。 大王大妃以承傳色、傳于賓廳曰:金祖淳家、卿等之諸議、如何?
<純祖実録:純祖2年9月6日 条>
これに大臣たちは喜んで同意しています。
翌年、純祖は親政を始めますが、今度は貞純王后に代わって義父・金祖淳が政界の中心となり、一族を要職へ配置して勢力を拡大します。こうして純祖が実権を握る前に、朝廷は外戚主導の勢道政治の時代へと移行していきました。
純祖の抵抗
1819年、純祖は安東金氏の影響力を抑えるため、世子嬪に豊壌趙氏の娘を選びました。一時的に安東金氏の力を抑えることに成功しますが、孝明世子が22歳で死去すると状況は再び逆転しました。
その後、権力を握った安東金氏による勢道政治は高宗時代まで約60年間続くことになります。
このように純祖は、11歳で即位してから45歳で没するまで、ほとんど自らの意志で政治を運営することができませんでした。
【PR】スポンサーリンク純祖はどんな王だったのか
『純祖実録』巻1「純祖大王行状」の記述内容から整理すると、「純祖は慎み深く質素な生活を好み、思いやりと孝行心を大切にしながら、まじめに学問と政治に向き合った穏やかな性格の王」として描かれています。
こうした温和な性格は、結果として王としての強い指導力を発揮できなかった一つの要因になった可能性があります。
純祖のプロフィール
没年:1834年11月13日(享年45歳)
在位期間:1800–1834年
姓・諱:李玜(イ・ゴン)
父:正祖
生母:綏嬪朴氏
陵墓:仁陵
純祖の家族
純元王后は1男4女をもうけましたが、唯一の男子である孝明世子は22歳で早世しました。王位に就いた孫の憲宗にも子がなく、王統を維持するため、第25代王には哲宗が養子として迎えられました。これは、王家の直系血統が憲宗の代で途絶えたことを意味します。
| 正/側 | 称号 | 子供 | 備考 | |
| 正室 | 純元王后 | 1男4女 | 孝明世子 | |
| 明温公主 | 金賢根の妻 | |||
| 福温公主 | 金炳疇の妻 | |||
| 公主 | 早世 | |||
| 徳温公主 | 尹宜善の妻 | |||
| 側室 | 淑儀朴氏 | 1女 | 不詳 | |
| 永温翁主 | なし |
まとめ
純祖は生涯最後まで、自らの主導による政治を行うことができなかった王でした。幼少期は貞純王后の摂政、親政後は安東金氏の勢道政治によって権力が制限されました。
しかし、これは純祖個人の資質というより、家系図が示す外戚勢力が当時の王権を上回っていたためと考えられます。
純祖の家系図をたどることで、正祖の時代から朝鮮後期へ向かう中で王権が衰退していく流れを理解することができます。