顕徳王后(ヒョンドクワンフ)は世子嬪として端宗を生みましたが、出産後に急逝。王妃となることなく24年の短い生涯を閉じています。
この記事では、顕徳王后の家系図とともに、彼女の人物像、家族関係、そして、その生涯をたどります。
顕徳王后の家系図
安東権氏の始祖は、高麗王朝の初代王・王建を支えた豪族・権幸(クォン・ヘン)です。
安東権氏は王族・全州李氏に次ぐ名門として知られ、科挙合格者の数は300名以上、そのうち10名が首席合格という記録を残しています。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<顕徳王后の家系図>
権氏は大韓民国の建国後に安東権氏に統合され、現在では韓国最大の氏族集団となっています。また、現存するもっとも古い族譜を持つ氏族としても知られています。
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世子嬪・純嬪奉氏が嫉妬に狂った醜態で宮廷を追い出されると、顕徳王后が世子嬪として選ばれました。しかし、彼女は端宗を出産した直後に急逝。王妃となることはありませんでした。
顕徳王后のプロフィール
顕徳王后が亡くなったときの世宗実録(世宗23年7月24日)によると、顕徳王后は徳が高く、言葉づかいや振る舞いが礼儀正しく、世宗と昭憲王后からの深く寵愛されていたと記されています。
特に、嫁として可愛がっていた世宗はこれまでの慣例を破り、宮中で哀悼の礼を行うことを命じました。
顕徳王后(ヒョンドクワンフ)
生年:1418年3月12日
没年:1441年7月24日(享年24歳)
氏族:安東権氏
顕徳王后の家族
顕徳王后は1男2女の子を生みました。長男は後の第6代国に即位する端宗です。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 夫 | 文宗 | 1414-1452 | 第5代国王 |
| 長女 | 不詳 | 1433-1433 | 早世 |
| 次女 | 敬恵公主 | 1436-1473 | 鄭悰の妻 |
| 長男 | 端宗 | 1441-1457 | 第6代国王 |
次女の敬恵公主は朝鮮王朝で「最も美しい王女」と伝えられています。
敬恵公主について詳しくはこちら>>実在した敬恵王女はどんな王女だったのか?
顕徳王后の父母・兄弟姉妹
顕徳王后は2男4女の次女でした。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 権専 | 1372-1441 | 判漢城府事 |
| 母 | 崔阿只 | 不詳-1456 | 海寧府夫人 |
| 弟 | 権自愼 | 不詳-1456 | |
| 弟 | 権自謹 | 不詳 | |
| 姉 | 不詳 | 不詳 | 金永命の妻 |
| 妹 | 不詳 | 不詳 | 權山海の妻 |
| 妹 | 不詳 | 不詳 | 金令孫の妻 |
弟・権自愼は1456年、母の崔阿只、成三問らとともに「端宗復位運動」に関わり処刑されています。父の権専もこの事件で庶人に降格されました。
顕徳王后の生涯
わずか23年で亡くなった顕徳王后の生涯は死後も含めて幸せなものとは言えません。1457年、息子の端宗が魯山君に降格されると、彼女は連座で庶人に降格されてしまいます。
生涯一覧
| 年 | 出来事 |
| 1418 | 権専の娘として生まれる |
| 1431 | 鄭氏、洪氏とともに王世子(文宗)の側室(承徽)になる |
| 1433 | 長女(早世)を出産。良媛に昇進 |
| 1435 | 次女の敬恵公主が生まれる |
| 1437 | 世子嬪に冊封される(世子嬪・純嬪奉氏は廃位) |
| 1441 | 7月、李弘暐(後の端宗)を生むが、翌日に顕徳王后は亡くなる |
| 11月、父・権専が亡くなる | |
| 1450 | 文宗が即位。「顕徳王后」と王妃に追尊される |
| 1455 | 端宗が譲位。上王となる |
| 1456 | 端宗復位の計画が発覚(死六臣事件) |
| 母・阿只および弟・自愼も関係したとして処罰される | |
| 1457 | 夫(上王)が魯山君(庶人)に降格される |
| この時点で追尊は取り消されたと推測される | |
| 6月、母・阿只が庶人に降格される | |
| 1513 | 中宗により復位 |
顕徳王后のお墓
顕徳王后は夫の文宗とともに、東九陵の顕陵(ヒョンヌン)に眠っています。東九陵は、景福宮から見て東にある九基の陵で顕陵はその中の一つです。

<東九陵の全体図>
当初は安山に葬られ、文宗の即位により「昭陵」として格上げされましたが、端宗の降格後、世祖により別の場所へ移葬されたと伝えられます。
そして、没後50年以上経って中宗により名誉を回復された後、顕徳王后は再び文宗と同じ陵墓に合葬されました。
文宗については>>文宗の家系図【王妃に恵まれなかった薄幸な王】で詳しく紹介しています。
まとめ
顕徳王后は名門の家に生まれ、側室として宮中に入り、のちに国王となる息子をもうけました。しかし、その生涯はわずか23年と短く、王妃の座に就くことなくこの世を去ります。
彼女の死は、息子・李弘暐(端宗)にとって即位後の大妃という後ろ盾を失うことを意味し、そのことが朝鮮王朝の歴史に大きな影響を及ぼしました。