ドラマ「王女の男」の敬恵公主で一躍有名になったキョンヘ王女(敬恵王女)です。
実在したキョンヘ王女とはどんな王女だったのか。
詳しく調べてみました。
実在したキョンヘ王女(敬恵王女)
キョンヘ王女(敬恵王女)は第5代王・文宗と正室・顕徳王后の長女として生まれました。
弟は第6代王となる端宗、夫は鄭忠敬(チョン・チュンギョン)の息子の鄭悰(チョン・ジョン)です。
<敬恵王女の家系図>
夫の鄭悰の家系
夫の鄭悰は鄭肅を始祖とする海州鄭氏を本貫とする名家の出身でした。
祖父の鄭易は李芳遠(太宗)と親密な中であり、戸曹判書などの要職を歴任した重臣でした。
鄭易の娘は太宗の次男・孝寧大君と結婚しています。
また、夫の父の鄭忠敬は刑曹參判を務めた官僚でした。
鄭忠敬の娘(夫の鄭悰の姉)も世宗の八男・永膺大君と結婚するなど、鄭氏は王族との関係が深い一族でした。
敬恵王女と鄭悰が結婚するときには、鄭悰の父・鄭忠敬は既に亡くなっていました。
鄭悰との結婚
敬恵王女は母を亡くした父を思い、15歳になっても結婚していませんでした。
しかし、祖父の世宗が病で倒れてしまいます。
万が一、世宗が亡くなると3年間は喪により結婚式を上げることができないため、キョンヘ王女は晩婚となります。
そこで、父の文宗は急遽、娘のキョンヘ王女を結婚させることとしました。
そして、その時に選ばれたのが名家の鄭悰(チョン・ジョン)でした。
プロフィール
キョンヘ王女(敬恵王女)は漢陽でも噂になるほどの美しい娘だったといいます。
父親や弟の面倒見がよく、特に父親が亡くなってからは弟にとってキョンヘ王女は母親のような存在でした。
端宗は王になってからも、よくキョンヘ王女の家に泊まりにいったと言われています。
敬称:敬恵公主(キョンへコンジュ)
生年:1436年
没年:1474年12月30日
享年:39歳
父:第5代王・文宗
母:顕徳王后
夫:鄭悰(チョン・ジョン)
弟:第6代王・端宗
キョンヘ王女の家族
キョンヘ王女(敬恵王女)と鄭悰の間には、流刑地で生まれた鄭眉寿と鄭悰が処刑されてから生まれた娘がいました。
しかし、娘に関する詳しいことは全く分かっていません。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 文宗 | 1414-1452 | 第5代国王 |
母 | 顕徳王后 | 1418-1441 | |
弟 | 端宗 | 1441-1457 | 第6代国王 |
夫 | 鄭悰 | 生年不詳-1461 | |
長男 | 鄭眉寿 | 1456-1512 | 海平府院君 昭平公 |
長女 | 不詳 | 1462-不詳 | 夫の処刑時にお腹の中 |
悲劇的な最後を遂げた夫
キョンヘ王女の夫は鄭氏一族の名家出身の鄭悰(チョン・ジョン)です。
鄭悰は2度も流刑地へ送られましたが、その度に端宗の復位を計画しました。
しかし、一度も成功することなく、最後は陵遅處斬(ヌンジチョチャム)の刑という、
最も残酷な方法で処刑されてしまいました。
キョンヘ王女の息子
キョンヘ王女の息子の鄭眉壽(チョンミス)は流刑地で生まれた子供でした。
父親の鄭悰が処刑された1461年にはまだ6歳の幼子でした。
本来であれば、母子ともに連座で処刑されるところですが、世祖はキョンヘ王女と子供の身分を回復、家や財産を与え保護したといいます。
その後、鄭眉壽は大罪人として、度々弾圧を受けますが、世祖の死後も成宗がかばいました。
鄭眉壽は官職を歴任して、1506年には右賛成になっています。
1506年の中宗反正のときには、功績を上げ、海平府院君となりました。
鄭眉壽は1512年、57歳で亡くなっています。
【PR】スポンサーリンクキョンヘ王女(敬恵王女)の生涯
キョンヘ王女は世子の娘として生まれ、父親が即位すると王女として敬恵公主と称されました。
しかし、その生涯は波乱万丈の生涯でした。
キョンヘ王女の誕生
1436年に、キョンヘ王女(敬恵王女)は第5代国王の文宗と顕徳王后との間に次女として生まれました。
キョンヘ王女が生まれたときに、姉は既に他界しています。
1441年、弟の端宗が生まれますが、母親の顕徳王后は産後すぐに亡くなってしまいました。
そのため、端宗とキョンヘ王女は世宗の側室・恵嬪楊氏に養育されます。
鄭悰との結婚
1450年1月、キョンヘ王女は鄭忠敬の息子・鄭悰と15歳で結婚しました。
当時の15歳は、むしろ遅い結婚でした。
妻を亡くした父親を不憫に思い、なかなか結婚しなかったと言われています。
しかし、祖父の世宗の病が重くなり、もし亡くなれば3年間は喪に服し、結婚はできません。
そこで、父の文宗が結婚を急がせました。
文宗は結婚したキョンヘ王女のために、宮廷の近くに大きな屋敷を準備したといいます。
父の即位、敬恵公主と称される
父の文宗が即位するまでは、キョンヘ王女は平昌郡主(ピョンチャングンジュ)と称されていました。
1450年4月、父の文宗が即位、キョンヘ王女は敬恵公主と称されます。
弟の即位と悲劇の始まり
1452年、父の文宗が亡くなり、弟の端宗が第6代国王に即位しました。
自分が王の器であること自他ともに認める叔父の首陽大君はキョンヘ王女にとって恐ろしい人物でした。
1455年、遂に首陽大君が動き出しました。
癸酉靖難が起こり、弟・端宗の後ろ盾の臣下は金宗瑞を筆頭に全て殺害されてしまいます。
キョンヘ王女の夫・鄭悰も流刑地に送られました。
端宗とキョンヘ王女の悲劇の始まりです。
夫との流刑地生活
1455年に端宗が譲位、首陽大君が第7代国王・世祖として即位しました。
端宗は、名ばかりの「上王」に据えられてしまいます。
1456年、死六臣事件が起こります。
端宗の復位計画を集賢殿の6人の学者たちが計画しますが、仲間の裏切りにより発覚、関係者が処刑されてしまいました。
鄭悰は死罪を逃れますが、流刑となり、キョンヘ王女も流刑地へ同行しました。
キョンヘ王女は流刑地まで輿に乗って行ったと記録されています。
王女は公主の身分を剥奪され、夫婦は通津、光州と流刑地を転々としています。
しかし、嬉しいこともありました。
1456年、キョンヘ王女と鄭悰の間に息子の鄭眉壽が生まれたのです。
夫・鄭悰の残虐な処刑
1457年、死六臣事件が原因で、端宗は上王から魯山君に降格の上、流刑となりました。
更に、錦城大君の端宗復権運動が発覚、錦城大君、端宗は死罪となります。
臣下より鄭悰の処罰も進言されますが、世祖は拒否しています。
しかし、1461年、鄭悰が僧侶ソンタンと端宗復位を企てますが、実行前に発覚してしまいます。
これには、何度も処罰から保護してきた世祖も遂に、処刑を言い渡します。
1461年10月20日、鄭悰は最も残酷な処刑方法の陵遅處斬(ヌンジチョチャム)で処刑されました。
キョンヘ王女の身分回復
鄭悰の処刑後、キョンヘ王女は光州より連れ戻されました。
世祖の臣下はキョンヘ王女と息子の処刑を進言しましたが、世祖はこれを拒否しました。
そして、1462年、キョンヘ王女の身分は回復され、屋敷、財産、奴婢が返還されます。
また、世祖はキョンヘ王女の子供に対しても大罪人の扱いを禁じました。
しかし、実録には夫の死後、尼となり、寺で暮らしたとの記録もあります。
キョンヘ王女は1474年12月30日、38歳で逝去しました。
キョンヘ王女が登場するドラマ
キョンヘ王女(敬恵王女)が敬恵公主として登場するドラマは次の通りです。
王女の男(2011年、ホン・スヒョン)
( )内は演じた女優
敬恵公主を一躍有名にしたのが、「王女の男」でした。
ドラマではホン・スヒョンが気丈な王女を演じて強烈な印象を残しました。
実は、ホン・スヒョンは第8回を撮影中に、帰宅途中で交通事故にあい、肋骨にヒビが入る大怪我を負ってしまいました。
撮影はかなり苦労したと言いますが、敬恵公主の生き様は視聴者に大きな印象を残してくれました。
まとめ
キョンヘ王女(敬恵王女)は実在した王女でした。
ドラマ「王女の男」の敬恵公主として、一躍日本でも有名になりました。
しかし、実在したキョンヘ王女の生涯は、流刑地での生活、弟と夫の処刑などドラマ同様に波乱万丈の生涯でした。