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忠宣王の家系図【王は愛するのワン・ウォンのモデルは実在】

王は愛するの世子ワン・ウォンのモデルは実在した忠宣王です。

モンゴル人を母親とする高麗で初の混血王・忠宣王はどのように育ったのか?

忠宣王の家系図から詳しく調べてみました。

 

忠宣王の家系図

忠宣王は、モンゴルの皇帝クビライの娘を母親とする高麗で初の混血の王です。

ドラマ「王は愛する」では、高麗で育っていますが、史実ではほとんどを元で暮らしていました。

<忠宣王の家系図>

忠宣王も王妃として、クビライの曾孫にあたる宝塔実憐(ブッダシュリ)を迎えています。

ブッダシュリは、初代元の皇帝クビライと皇后チャブイの息子チンキムの長男カマラの娘です。

死後、元から薊国大長公主の称号が与えられました。

 

後に、第27代王となる忠粛王の母親・也速真(イェスジン)もモンゴル人です。

しかし、也速真はモンゴルの皇族ではなく、その家系については全く分かっていません。

死後、懿妃の称号が与えられました。

 

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忠宣王とはどんな王だったのか?

忠宣王は高麗で生まれましたが、幼い頃から元で生活をしていました。

そのため、元では小さな雄牛を意味する益知礼普花(イジリブカ)というモンゴル名を使っていました。

忠宣王プロフィール

忠宣王の最初の本名はドラマと同じ王謜(ワン・ウォン)ですが、後に、王璋(ワン・ヴァン)に改名しています。

<プロフィール>
第26代高麗王
在位期間:1298年3月2日-9月24日
    1308年9月13日-1313年4月20日
姓・諱:王璋(ワン・ヴァン)
モンゴル名:益知礼普花(イジリブカ)
諡号:忠宣憲孝大王
生年:1275年9月30日
没年:1325年5月13日
享年:51歳
父:忠烈王
母:元成公主(荘穆王后)
后妃:薊国大長公主
   也速真
陵墓:徳陵

 

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忠宣王の生涯

忠宣王は3歳で世子になると、翌年には元で暮らし始めました。

1297年、23歳の時に母親が亡くなると一時帰国、忠烈王の譲位を受けて高麗王に即位しますが、趙妃誣告事件により世子に降格、元に呼び戻されました。

以降、約10年間、元で暮らしています。

 

1308年に父親の忠烈王が亡くなると、高麗に戻り、忠宣王として即位します。

しかし、高麗に滞在することはなく、直ぐに元に戻り、元の大都から高麗の家臣たちに指示をだして国政を行いました。

高麗王を王燾(忠粛王)に譲位してからも元に留まり、生涯、高麗に帰ることはありませんでした。

年月 出来事
1275年9月 忠烈王と元成公主の間に生まれる
1277年1月 3歳で世子になる
1278年 4歳のとき、モンゴルで生活を始める
1287年 王瑛の娘(静妃王氏)が貢女に行くのを阻止、世子嬪とする
1289年 静妃王氏と結婚する(初めての正妃)
1290年 文臣・洪奎の娘(順和院妃)が世子嬪になる
1292年 文臣・趙仁規の娘(趙妃)が世子嬪になる
1296年11月 元のカマラの娘のブッダシュリ(薊国大長公主)と結婚
1297年5月 母親の元成公主が亡くなる
元から帰国。母親を苦しめたとして、忠烈王の側室の無比(ムビ)を処刑する
1298年1月 元成公主の死、無比の処刑にショックを受けた忠烈王が譲位
1298年3月 忠宣王が高麗王になる
1298年5月 趙妃誣告事件が起きる
1299年 趙妃は趙仁規とともに元に送られ、趙仁規の一家は断絶
忠宣王は世子に降格、元に呼び戻される
1299年9月 忠烈王が復位する
1308年 忠宣王は瀋陽王に冊封される
忠烈王が亡くなる
忠宣王が高麗王になる
即位後は、元の大都から高麗の家臣たちに伝旨で国政を行う
1310年 長男の広陵君(王鑑)が王座を狙ったとして忠宣王に殺害される
次男の王燾を世子とする
1313年 高麗王を王燾(忠粛王)に譲位
1314年 三男の王譓(徳興君)が生まれる。母は不詳
1315年 薊国大長公主が亡くなる
1316年 瀋王を王暠(忠烈王の子の江陽公王滋の次男)に譲位
王燾(忠粛王)が高麗王、王暠(延安君)が瀋陽王になる
1320年 忠宣王は吐蕃(チベット)に流刑
1323年 泰定帝が即位、忠宣王は泰定帝の赦免を受けて元に戻る
1325年5月 忠宣王が大都にて死去

 

<豆知識>趙妃誣告事件とは
1298年5月、趙妃に嫉妬した薊国大長公主(ブッダシュリ)が元に虚偽の訴えをしたことで元の怒りをかった事件です。趙仁規の一家は断絶。趙妃は趙仁規とともに元に送られ、その後、消息不明となりました。

忠宣王はたった6ヶ月で世子に降格、元に呼び戻され、その後10年間、薊国大長公主と元で暮らしています。

 

この事実をドラマ「王は愛する」では、忠宣王は自ら譲位、サンとリンを思って元に戻ったように創作されています。

また、ドラマでは忠宣王は高麗で暮らしていましたが、史実では生涯のほとんどを元で暮らしていました。

 

忠宣王の家族

忠宣王は多くの妃を娶りましたが、子供は3男1女の4人でした。

関係 称号 名前 生年-没年 備考
薊国大長公主 宝塔実憐 不明-1315 クビライの曾孫
懿妃 也速真 不明-1316 モンゴル出身
静妃王氏 不明 不明-1345 王瑛の娘
趙妃 不明 不明 王から寵愛
長男 広陵君 王鑑 不明-1310 世子、処刑される
次男 忠粛王 王燾 不明
順和院妃洪氏 不明 不明-1306 明徳王后の姉
順妃許氏 不明 1271-1335 未亡人。前夫は平陽公王昡
<母は不明>
三男 徳興君 王譓 1314-1367 幼少期に出家
長女 寿春翁主 不明 不明-1345 唯一の王女。夫は許悰

 

薊国大長公主

薊国大長公主はモンゴルの皇族カマラの娘で、モンゴル名は宝塔実憐(ブッダシュリ)です。

カマラは忠宣王の母親・元成公主の従兄にあたり、薊国大長公主はクビライの曾孫にあたります。

 

懿妃

モンゴル出身で、モンゴル名は也速真(イェスジン)ですが、家系は不明です。

皇族の出身ではありませんが、薊国大長公主と結婚する前から婚姻していました。

忠宣王が元で生活している時に知り合ったと推測されます。

 

静妃王氏

静妃王氏は王族・西原侯 王瑛(ワン・ヨン)の娘です。

ドラマ「王は愛する」でリンの妹・ワン・ダンのモデルになった人物です。

実際に、1287年に元に貢女として送られるところを忠宣王が母親の元成公主(荘穆王后)にお願いしてやめさせたと言われています。

1289年に忠宣王と結婚しています。

 

趙妃

高麗の文臣・趙仁規の娘です。

趙仁規はモンゴル語の通訳官でしたが、外交力を高く評価され忠宣王の重臣となった人物です。

 

趙妃は忠宣王から最も寵愛を受けた妃でした。

そのため、薊国大長公主に嫉妬され、趙妃とその家族が呪詛していると元の朝廷に訴えられました(趙妃誣告事件)

 

この誣告(ぶこく)により、趙妃は家族と共に元へ強制連行され、その後の消息は不明になります。

また、忠宣王は世子に降格、元に呼び戻されてしまいました。

 

まとめ

ドラマ「王は愛する」のワン・ウォンのモデルは実在した忠宣王でした。

史実の忠宣王は生涯のほとんどを元で生活していました。

そのため、高麗における王としての実績はほとんどありませんでした。

 

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