高麗時代は親近者での結婚が多く、そのため家系図は大変複雑になっています。
光宗(ワンソ)の婚姻関係はどうだったのか、妻や側室について詳しくご紹介します。
光宗(ワンソ)の家系図
<光宗の家系図>
高麗時代には、異母兄弟姉妹や兄弟の子供同士など、親族間での結婚が一般的な慣習でした。
記録によれば、光宗(ワンソ)には王后と2人の側室がいました。その王后は異母妹であり、側室の一人は従姉妹にあたります。
このように、光宗もまた時代の慣習に従い、近親者との婚姻を選んでいたのです。
次の章では光宗の妻と側室について、更に詳しくご紹介していきます。
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光宗(ワンソ)の妻(王后)と側室、そして、その子供たちです。
<光宗(ワンソ)の家族>
関係 | 名前 | 子供 | 備考 | |
王后 | 大穆王后 | 2男3女 | 景宗 | 第5代国王 |
孝和太子 | 早世 | |||
千秋公主 | ||||
寶華公主 | ||||
文徳王后 | 第6代国王成宗の正妃 | |||
側室 | 慶和宮夫人 林氏 | 子女なし | 第2代国王恵宗の娘 | |
宜慧貴妃 大氏 | 子女なし | 渤海国王族出身 |
光宗の妻
光宗(ワンソ)の正妃は太祖の第4の王后である神静王后の娘・大穆王后(テモクワンフ)です。
光宗にとっては、異母妹にあたります。
ドラマ「麗<レイ>」では、后妃のためなら兄や一族をも捨てる冷酷な女性として描かれています。
晩年には、光宗から息子の景宗とともに疑念を抱かれ、冷遇されていたことは史実の通りです。
光宗の側室
光宗(ワンソ)には二人の側室がいました。
・宜慧貴妃 大氏
慶和宮夫人林氏は第2代国王恵宗の娘です。
ドラマ「麗<レイ>」でも、豪族の支援を得るために嫁(実際は人質)に出されるところを光宗に助けられ、彼と結婚しました。
一方、史実の慶和宮夫人は弟が光宗に粛清され、その悲しみから自害しています。
また、もう一人の側室である宜慧貴妃大氏は渤海国王族出身の女性です。
この女性は「輝くか狂うか」のシンユルのモデルとも言われています。
ところで、ドラマ「麗」に登場するヘスのモデルになった女性はいたのでしょうか?
気になりますよね。
ヘスについては>>ドラマ「麗」のヘスは実在した人物? で詳しくご紹介しています。
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光宗(ワンソ)には大穆王后との間に2男3女の子供がいました。
長男の王伷(景宗)は光宗からは懐疑の目を向けられ、二人の関係は良くありませんでした。
ドラマ「麗<レイ>」でも、光宗は息子に会おうともしませんでした。
光宗が亡くなると、長男が第5代高麗王の景宗として即位しますが、大きな功績もなく26歳の若さで亡くなりました。
景宗の子供がまだ幼かったため異母弟の王治(成宗)が第6代高麗王として即位しています。
光宗(ワンソ)の母と兄弟
光宗(ワンソ)の母・神明順聖王后は太祖との間に5男2女の子供を産んでいます。
光宗の母
光宗(ワンソ)の母は太祖の第3王后である神明順聖王后で、皇后ユ氏とも呼ばれていました。
神明順聖王后の父親は新羅(忠州)の有力豪族であった劉兢達(ユ・グンダル)です。
劉兢達は太祖が王になる前から支援し、918年に太祖が高麗を建国すると娘の神明順聖王后を嫁がせました。
当時の豪族の力は強く、太祖はまさに豪族に支えられた王でした。
従って、神明順聖王后の発言力も強かったと推定されます。
ドラマ「麗<レイ>」でも、神明順聖王后は存在感のある王后として描かれています。
但し、ドラマのように神明順聖王后が光宗を嫌っていたような記録はありません。
光宗の兄弟
光宗(ワンソ)は5人兄弟の3番目に生まれています。
長男は若くして亡くなっているため、次男の王堯(ワン・ヨ)が第3代高麗王に即位しました。
続柄 | 称号 | 姓・諱 | 備考 |
長男 | 太子泰 | 早世 | |
次男 | 定宗 | 王堯(ワンヨ) | 第3代高麗王、在位4年で病死 |
三男 | 光宗 | 王昭(ワンソ) | 第4代高麗王、王権の強化に努める |
四男 | 文元大王 | 王貞(ワンジョン) | |
五男 | 證通国師 | 出家して僧侶になる | |
長女 | 安貞淑儀公主 | 新羅の敬順王の妻 | |
次女 | 興芳宮主 | 元荘太子の妻 |
家系図が複雑な理由とは
何故このような複雑な婚姻関係になったのでしょうか?
太祖は当初、王室の後ろ盾を得るために王族と豪族との結婚を進めました。
しかし、その結果、豪族の発言力が強くなり、王の力が弱くなりました。
そこで、太祖は王族同士を結婚させることにより、豪族の権限を弱め、王室の権限強化を図りました。
この慣習が受け継がれ、高麗時代には異母兄弟の結婚が頻繁に行われるようになります。
また、近親婚は王室からの財産流失を防ぐ目的もあったと言われています。
本当に暴君だったのか?
光宗(ワンソ)は豪族に支配される王室の権力を取り戻すために、豪族の経済力と武力を排除することを考えました。
王権強化の施策
まずは豪族の経済力と武力の源である奴婢の開放を進めました。(奴婢按検法)
また、科拳制度を取り入れて、豪族に独占されていた朝廷に優秀な人物の採用を図りました。
これは豪族や親族の強固な反対にあいます。
反対派に対する激しい粛清
光宗は譲らず強引に推し進めるために多くの人を粛清しはじめます。
粛清は晩年になるほど厳しさを増していき、罪がない多くの人も粛清の対象になりました。
数百人単位での粛清や一族皆殺しの粛清も行われました。
建国時に数千人いた功臣も、粛清により数十人程度になったとも言われています。
親族に対する疑い
そして、最後には息子や妻に対しても疑いを強めていきます。
名君と言われる一方でこうした行為が、後世に冷酷な王として批判される原因になっています。
光宗(ワンソ)の肖像画は存在するのか?
ドラマ「麗<レイ>」には、最終回に展示会用のポスターに使われた光宗の肖像画が登場します。
もちろん、この肖像画はドラマ用に作られたものです。
でも、実在した光宗の肖像画は存在するのでしょうか?
残念ながら、第4代高麗王・光宗の肖像画は実在しません。
韓国では三国時代から肖像画が描かれ始め、高麗時代には本格的に肖像画が描かれたと言われています。
しかし、現存するのは朝鮮王朝時代以降に描かれた肖像画だけです。
光宗(ワンソ)の最後
光宗は975年7月4日に享年51歳で亡くなっています。
光宗の死因
光宗の死因の記録はありません。
暴君と言われ多くの粛清を実施しましたが、暗殺されたことを示す記録はないことから病死ではないかと思われます。
光宗のお墓
光宗のお墓は北朝鮮の領土内に存在していますが、ほとんど管理されていない状態のようです。
これは、光宗に限らず、初代高麗王の太祖を除いた高麗王の墓が同じような状態で放置されています。
<光宗のお墓>
光宗の参考情報
最後に、光宗のプロフィールや登場するドラマなどをご紹介します。
光宗のプロフィール
ドラマ「麗<レイ>」では、顔に傷をおったワン・ソは信州のカン氏に養子に出されていますが、史実ではそのような記録はありません。
生年:925年
没年:975年7月4日
在位期間:949年4月13日-975年7月4日
姓・諱:王昭(ワン・ソ)
父:太祖
母:神明順聖王后
お墓:憲陵
光宗(ワンソ)が登場するドラマ
光宗(ワンソ)が登場する代表的なドラマは次の3件です。
(2002年、キム・サンジュン)
・輝くか、狂うか
(2015年、チャン・ヒョク)
・麗<レイ>~花萌ゆる8人の皇子たち~
(2016年、イ・ジュンギ)
まとめ
高麗の第4代王・光宗(ワンソ)の家系図は、異母妹を正妃とし、側室の一人も従姉妹であるなど、当時の王族の結婚慣習を色濃く表していました。
これは、近親婚を通じて王権を強化しようとした高麗王室の婚姻政策を反映したものです。
また、光宗は王権を強化するために豪族を抑え、多くの改革を実施しましたが、その過程で大規模な粛清により、冷酷な王と評価されています。
しかし、一方では、彼の改革は後の高麗王朝の基盤を築く重要なものであり、名君との評価もあります。
光宗に関する史実は多くのドラマの題材にもなっており、フィクションと史実の違いを知ることで、謎めいた彼の人物像を理解することができるかもしれません。