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高麗に君臨した光宗(ワンソ)の家系図【複雑な婚姻関係を図解】

高麗王朝の基礎を築いた第4代高麗王の光宗(ワンソ)の家系図を調べてみました。

 

光宗(ワンソ)の家系図

光宗の時代である高麗時代は親近者での結婚が多く、そのため家系図は大変複雑になっています。

異母兄弟姉妹の結婚、兄弟の子供同士の結婚など家系図を見れば、その複雑さは一目瞭然です。

<光宗の家系図>

でも、何故このような複雑な婚姻関係になったのでしょうか?

太祖は当初、王室の後ろ盾を得るために王族と豪族との結婚を進めました。

しかし、その結果、豪族の発言力が強くなり、王の力が弱くなりました。

そこで、太祖は王族同士を結婚させることにより、豪族の権限を弱め、王室の権限強化を図りました。

この慣習が受け継がれ、高麗時代には異母兄弟の結婚が頻繁に行われるようになります。

また、近親婚は王室からの財産流失を防ぐ目的もあったと言われています。

 

光宗の母

光宗の母は太祖の第3王后である神明順聖王后で、皇后ユ氏とも呼ばれていました。

 

神明順聖王后の父親は新羅(忠州)の有力豪族であった劉兢達(ユ・グンダル)です。

劉兢達は太祖が王になる前から支援し、918年に太祖が高麗を建国すると娘の神明順聖王后を嫁がせました。

 

当時の豪族の力は強く、太祖はまさに豪族に支えられた王でした。

従って、神明順聖王后の発言力も強かったと推定されます。

ドラマ「麗<レイ>」でも、神明順聖王后は存在感のある王后として描かれています。

但し、ドラマのように神明順聖王后が光宗を嫌っていたような記録はありません。

 

光宗の兄弟

光宗の母・神明順聖王后は太祖との間に5男2女の子供を産んでいます。

続柄 称号 姓・諱 備考
長男 太子泰 早世
次男 定宗 王堯(ワンヨ) 第3代高麗王、在位4年で病死
三男 光宗 王昭(ワンソ) 第4代高麗王、王権の強化に努める
四男 文元大王 王貞(ワンジョン)
五男 證通国師 出家して僧侶になる
長女 安貞淑儀公主 新羅の敬順王の妻
次女 興芳宮主 元荘太子の妻

長男は若くして亡くなっていますが、次男の王堯(ワン・ヨ)は第3代高麗王に、三男の王昭(ワン・ソ)は第4代高麗王になっています。

 

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光宗(ワンソ)の家族構成

光宗(ワンソ)は明確になっている記録では、王后と2人の側室がいました。

子供は全て、大穆王后の子供で2男3女です。

第4代高麗王・光宗 子供 備考
王后 大穆王后 2男3女 景宗 第5代国王
孝和太子 早世
千秋公主
寶華公主
文徳王后 第6代国王成宗の正妃
側室 慶和宮夫人 林氏 子女なし 第2代国王恵宗の娘
宜慧貴妃 大氏 子女なし 渤海国王族出身

 

光宗のプロフィール

光宗(クァンジョン)は初代高麗王の太祖と第3王后の神明順聖王后の間に生まれました。

ドラマ「麗<レイ>」では、顔に傷をおったワン・ソは信州のカン氏に養子に出されていますが、史実ではそのような記録はありません。

<光宗のプロフィール>
生年:925年
没年:975年7月4日
在位期間:949年4月13日-975年7月4日
姓・諱:王昭(ワン・ソ)
父:太祖
母:神明順聖王后
お墓:憲陵

 

光宗の妻

光宗の正妃は太祖の第4の王后である神静王后の娘・大穆王后(テモクワンフ)です。

光宗にとっては、異母妹にあたります。

ドラマ「麗<レイ>」では、后妃のためなら兄や一族をも捨てる冷酷な女性として描かれています。

晩年には、光宗から息子の景宗ともども懐疑の目を向けられ冷たくされていたことは史実の通りです。

 

光宗の側室

光宗には二人の側室がいました。

・慶和宮夫人 林氏
・宜慧貴妃 大氏

慶和宮夫人林氏は第2代国王恵宗の娘です。

ドラマ「麗<レイ>」でも、豪族の支援を得るために嫁(実際は人質)に出されるところを光宗に助けられ、光宗と結婚しています。

史実では、慶和宮夫人は弟が光宗に粛清され、そのショックで自殺してしまいます。

 

また、もう一人の側室である宜慧貴妃大氏は渤海国王族出身の女性です。

この女性は「輝くか狂うか」のシンユルのモデルとも言われています。

 

光宗の子供

光宗には大穆王后との間に2男3女の子供がいました。

長男の王伷(景宗)は光宗からは懐疑の目を向けられ、二人の関係は良くありませんでした。

ドラマ「麗<レイ>」でも、息子に会おうともしない光宗を非難する大穆王后の場面がありました。

 

光宗が亡くなると、第5代高麗王の景宗として即位しますが、大きな功績もなく26歳の若さで亡くなりました。

景宗の子供がまだ幼かったため異母弟の王治(成宗)が第6代高麗王として即位しました。

 

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本当に暴君だったのか?

光宗は豪族に支配される王室の権力を取り戻すために、豪族の経済力と武力を排除することを考えました。

そこで、まずは豪族の経済力と武力の源である奴婢の開放を進めました。(奴婢按検法)

また、科拳制度を取り入れて、豪族に独占されていた朝廷に優秀な人物の採用を図りました。

 

これは豪族や親族の強固な反対にあいます。

しかし、光宗は譲らず強引に推し進めるために多くの人を粛清しはじめます。

粛清は晩年になるほど厳しさを増していき、罪がない多くの人も粛清の対象になりました。

 

数百人単位での粛清や一族皆殺しの粛清も行われました。

建国時に数千人いた功臣も、粛清により数十人程度になったとも言われています。

そして、最後には息子や妻に対しても疑いを強めていきます。

名君と言われる一方でこうした行為が、後世に冷酷な王として批判される原因になっています。

 

光宗(ワンソ)の肖像画は存在する?

ドラマ「麗<レイ>」には、最終回に展示会用のポスターに使われた光宗の肖像画が登場します。

もちろん、この肖像画はドラマ用に作られたものです。

 

でも、実在した光宗の肖像画は存在するのでしょうか?

残念ながら、第4代高麗王・光宗の肖像画は実在しません。

 

韓国では三国時代から肖像画が描かれ始め、高麗時代には本格的に肖像画が描かれたと言われています。

しかし、現存するのは朝鮮王朝時代以降に描かれた肖像画だけです。

 

光宗(ワンソ)の最後

光宗は975年7月4日に享年51歳で亡くなっています。

光宗の死因

光宗の死因の記録はありません。

暴君と言われ多くの粛清を実施しましたが、暗殺されたことを示す記録はないことから病死ではないかと思われます。

 

光宗のお墓

光宗のお墓は北朝鮮の領土内に存在していますが、ほとんど管理されていない状態のようです。

これは、光宗に限らず、初代高麗王の太祖を除いた高麗王の墓が同じような状態で放置されています。

<光宗のお墓>

 

光宗(ワンソ)が登場するドラマ

光宗(ワンソ)が登場する代表的なドラマは次の3件です。

・光宗大王 〜帝国の朝〜(2002年、キム・サンジュン)
・輝くか、狂うか(2015年、チャン・ヒョク)
・麗<レイ>~花萌ゆる8人の皇子たち~(2016年、イ・ジュンギ)

 

まとめ

第4代高麗王の光宗(ワンソ)の家系図を調べると、豪族との結婚、親近者同士の結婚を繰り返した結果、とても複雑な家系図になっていました。

これを図解で示すと、その複雑さが一目瞭然でした。

 

これは、王室の権力強化が目的でしたが、光宗は更に、豪族を排除するために奴婢按検法や科拳制度の採用を行いました。

そして、これに反発する親族や豪族を次々と粛清していきました。

これがのちに光宗が冷酷な王と言われる要因になりました。

 

 

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