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趙英茂(チョ・ヨンム)は実在?【李芳遠を支えた武将】

趙英茂(チョ・ヨンム)は李芳遠の臣下として知られる実在した武将です。『朝鮮王朝実録』にも多くの記録が残されています。

この記事では、史実に基づき、趙英茂の人物像、家系、生涯について詳しく解説します。

趙英茂はどんな武将だったのか?

趙英茂(チョ・ヨンム)は李成桂に才能を見出され、朝鮮建国の初期から太宗の代にかけて活躍した武将です。第一次王子の乱では李芳遠側に立ち、その後は側近として活躍。最終的に右議政(正一品)にまで昇進しました。

趙英茂のプロフィール

趙英茂(チョ・ヨンム)は素朴で誠実、曲がったことが嫌いで、政務に私情を挟まなかった人物でした。

<ドラマ「イ・バンウォン」のチョ・ヨンム>

『太宗実録』には次のように記されています。

英武質實好直言、任政無私、爲上所重
<太宗14年7月28日条(1414年)>

<訳>趙英茂は人柄が実直で、率直な諫言を好み、政務において私心がなく、王から深く重んじられていた。
<プロフィール>
生年:1338年
没年:1414年7月28日(享年77歳)
諡号:忠武
氏族:漢陽趙氏
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趙英茂の家系図

趙英茂は趙之壽を始祖とする漢陽趙氏の出身とされます。趙之壽は高麗末期に朝順大夫僉議中書事を務めた人物で、祖先は代々、辺境の武人であったと考えられています。

系譜によると、祖父は趙珣厚、父は趙世玲であり、朝鮮建国時に趙英茂が開国功臣となったことで一族の地位は大きく上昇しました。

趙英茂の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<趙英茂の家系図>

<豆知識>漢陽趙氏の2つの系統
漢陽趙氏の系統には、趙麟才から分かれた「版図公派」と趙暉から分かれた「摠管公派」があります。実は、この2つの派は、それぞれが正規の系統であると主張しています。現在もなお、趙麟才と趙暉は兄弟だったのか、全く血縁関係がなかったのか、詳しいことは分かっていません。
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趙英茂の家族

趙英茂には正室・信州金氏と継室・載寧康氏がおり、複数の男子が確認されています。ただし、子孫の詳細な記録は多く残っていません。

関係 名前 生年-没年 備考
趙世玲(趙世珍) 不詳
永興崔氏 不詳
正室 信州金氏 不詳 貞敬夫人、康熙の娘
息子 趙敍 1370-1429
息子 趙倫 不詳
息子 趙琠 不詳
継室 載寧康氏 不詳 貞敬夫人
息子 趙秩 不詳
息子 趙理 不詳

趙英茂の生涯

1338年、趙英茂(チョ・ヨンム)は趙世玲(趙世珍)の息子として生まれました。

李成桂の配下として頭角を現す

若い頃に辺境の番上軍を経験した後、李成桂の配下となり軍事的才能を評価されます。

1392年には趙英珪とともに鄭夢周殺害に関与したと伝えられています。その年の7月、趙英茂は朝鮮建国に貢献、開国功臣3等に処せられ、判殿中寺事に任命されました。

その後も武将として功績を重ね、着実に昇進していきます。

李芳遠への加担に対する太祖の厳しい批判

1398年、第一次王子の乱では李芳遠を助け、定社功臣1等に封じられています。しかし後日、太祖は趙英茂に対して李芳遠に味方したことを強く非難します。

このことは、『定宗実録』に次のように記されています。

英茂者、自東北面侍衛軍、擢爲牌頭、位至宰相、得與開國之列。 此三人者、雖粉骨糜身、豈足以報我之恩! 然皆小人
<定宗2年7月2日の条(1400年)>

<訳>英茂(趙英茂)は一兵士の出身でありながら抜擢によって宰相にまで出世し、開国功臣にも列した人物である。それほどの恩を受けながら、三人※とも恩義を忘れた人物にすぎない、と太上王(太祖)は強く非難した。

※三人とは、このとき一緒に避難された趙溫、趙英茂、李天祐のことです。

李芳遠の臣下として出世

しかしその後、趙英茂は李芳遠の臣下として重用され、要職を歴任していきます。1400年の第二次王子の乱では軍事面で功績を挙げ、佐命功臣一等に封じられました。

1401年には參贊門下府事となるものの、私兵廃止政策への反発から流刑となりますが、まもなく復帰。三軍府や議政府の中枢を担い、1405年には右議政へ昇進しました。

趙英茂の最後|晩年と死去

1408年、趙英茂は府院君に封じられ、領三軍府事(正一品)となりましたが、病気のため辞職しました。辞職後は、京畿道光州廣域市で静養しています。

1413年、趙英茂は右議政に復職しましたが、翌年の1414年、病気のため亡くなっています。趙英茂が亡くなったとき、太宗が大変落胆した様子が、『太祖実録』に残されています。

漢山府院君 趙英茂卒。<–途中略–>悼甚素膳、輟朝三日、賻米豆一百石、紙二百卷、賜謚忠武。
<太宗14年7月28日条(1414年)>

<訳>漢山府院君の趙英茂が死去した。<–途中略–>王は深い哀悼の意を示し、精進の食事をとり、三日間朝政を停止した。また米・豆百石、紙二百巻を賻物として下賜し、諡号「忠武」を贈った。

趙英茂の墓所は2つありますが、実際に埋葬されているのは、光州郡退村面広東里の墓所です。

<光州郡退村面広東里の墓所>

歴任した官職と功臣号

趙英茂は開国功臣・定社功臣・佐命功臣という三度の功臣号を受けた数少ない人物の一人です。軍事と政治の両面で重用され、朝鮮建国から太宗政権確立までを支えました。

官職及び称号
1379年 李成桂配下の郎将となる
1385年 中正大夫典客令
1388年 鉄原副使権農防將
1390年 海州牧使兼防衛使
1392年 朝鮮建国に参加(開国功臣3等)
1398年 第一次王子の乱(定社功臣1等)
1400年 第二次王子の乱(佐命功臣1等)
1401年 三軍府・議政府の中枢職
1405年 右議政(正一品)
1408年 府院君に封じられる
1413年 右議政に復職

まとめ

趙英茂は李成桂のもとで頭角を現し、李芳遠を支えた実在の武将でした。朝鮮建国と王子の乱という激動の時代に功績を重ね、最終的に右議政(正一品)にまで昇進します。

史料から見える姿は、武人出身でありながら政権中枢を担った建国期を象徴する功臣であり、晩年まで李芳遠政権を支え続けた人物でした。

太祖から李芳遠へと主君を替えた決断こそ、趙英茂の出世を決定づけた転機であり、建国期においては個人の政治的選択がその後の命運を大きく左右する時代であったことを物語っています。

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