睿宗(イェジョン)は第7代王・世祖の次男で、第9代王・成宗の叔父にあたります。19歳で即位しますが、病弱で1年2ヶ月後に亡くなっています。短命だった睿宗とはどんな王だったのか?
この記事では、睿宗の家系図から人物像、家族構成、そして短い生涯を詳しく解説します。
睿宗の家系図
睿宗の父親は癸酉靖難(ケユジョンナン)で、端宗から王座を奪った第7代王の世祖(セジョ)。母は後に朝鮮王朝で初めて垂簾聴政を行い歴史に名を残した貞熹王后(チョンヒワンフ)です。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<睿宗の家系図>
貞熹王后は坡平尹氏の名門出身で、この一族は彼女を含め4人の王妃を輩出しています。
詳しくは>>貞熹王后の家系図【朝鮮王朝で初めて垂簾聴政を行った大王大妃】
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睿宗は幼少期から病弱でしたが、世子として帝王学を学び、早くから政治へも参加。父・世祖の政治を間近で見て育ちました。
即位後は世祖の影響を受け、強固な姿勢で政務に臨もうとしましたが、病が悪化し、在位1年2ヶ月で亡くなっています。
睿宗のプロフィール
生年:1450年1月1日
没年:1469年11月28日(享年20歳)
在位:1468年9月7日-1469年12月31日
姓・諱 :李晄(ファン)
廟号:睿宗(イェジョン)
陵墓:昌陵(京畿道高陽市)
睿宗の家族
睿宗には兄の懿敬世子(桃源君)がいましたが、20歳で病死。その妻(義姉)は後に、息子・成宗を補佐し影の権力者と言われたインス大妃(昭恵王后)です。
睿宗の親兄弟
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 世祖 | 1417-1468 | 第7代王 |
| 母 | 貞熹王后 | 1418-1483 | 垂簾聴政を行う |
| 兄 | 懿敬世子 | 1438-1457 | 妻はインス大妃 |
| 姉 | 懿淑公主 | 1441-1477 |
睿宗の妻と子供
睿宗は韓明澮の娘・章順王后と結婚し、12歳のときに長子・李霬(イ・ヨム)を授かりました。しかし、李霬は風邪をこじらせて3歳で早逝。章順王后も産後まもなく亡くなります。若き世子は相次ぐ不幸に深く悲しみました。
その後、韓伯倫の娘・安順王后が世子嬪として迎えられ、2男1女の子どもをもうけています。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 正室 | 章順王后 | 1445-1461 | 韓明澮の娘 |
| 長男 | 李霬 | 1461-1463 | 仁城大君に追尊 |
| 継室 | 安順王后 | 1445-1499 | 韓伯倫の娘 |
| 長女 | 顕粛公主 | 1464-1502 | 任光載の妻 |
| 次男 | 斉安大君 | 1466-1525 | 李琄 |
| 次女 | 恵順公主 | 1468-1469 | |
| 側室 | 恭嬪崔氏 | 不詳 | 崔道一の娘 |
| 側室 | 李氏 | 不詳 | 李義生の娘 |
※側室との間には子はありませんでした。
睿宗の生涯
1450年、睿宗は世祖と貞熹王后の次男として生まれました。兄の李暲(懿敬世子)が病死したため、1457年に王世子に冊立されました。
12歳で父親になる
1460年、韓明澮の娘(章順王后)と結婚。翌年に李霬が生まれ、睿宗はなんと12歳で父親となりましたが、出産後、章順王后は亡くなってしまいました。さらに、息子の李霬が突然、逝去。睿宗は妻と子を次々に失い、精神的に深い痛手を受けました。
新たに世子嬪を迎える
1462年、韓伯倫の娘(後の安順王后)が次の世子嬪に選ばれて入宮しています。
承命代理として政務に参加
1466年頃から、睿宗は承命代理(スンミョンデリ)として政務を補佐しています。この経験から、睿宗の政治の進め方は父・世祖の影響を大きく受け、即位後は、世祖のように高官に対して強固な態度や言動を示したとされます。
このころから、世祖の病は徐々に重くなり、次第に床に伏すことが多くなっていました。
※承命代理:承命(依頼)されて代理を務めるという意味
睿宗の即位と院相制による政権運営
1468年9月7日、病に伏していた世祖は王位を世子(後の睿宗)に譲り、翌日亡くなりました。
世祖実録には次のように記録されています。
上疾大漸、召禮曹判書任元濬入內、傳曰:「予將傳位世子、其辦諸事。」
<世祖実録14年9月7日条 1468年 >
19歳で即位した睿宗は若く経験不足だったため、貞熹王后の垂簾聴政と、世祖が任命した重臣・韓明澮らによる「院相制」により政治が運営されました。
院相とは承政院の宰相(さいそう)という意味で、韓明澮、申叔舟、具致寛の三重臣が国政を決定、睿宗は名目上の王にとどまりました。
南怡の謀叛事件と新興勢力の粛清
1468年、武臣・南怡(ナム・イ)が謀反の罪で処刑される事件が起こりました。旧功臣勢力の韓明澮や申叔舟が新興勢力の南怡らを粛清するために仕組んだとされます。
この事件は、新興勢力で冷遇されていた柳子光(ユ・ジャグァン)の密告を利用した捏造とも伝えられます。世祖死後の功臣間の主導権争いを象徴する事件でした。
閔粋史獄の発覚と処罰
1469年、官史の閔粋(ミン・ス)が実録草本を改ざんした罪で捕らえられました。重臣の不正を隠そうとしたとされ、閔粋は奴婢に、協力者2名(康致誠と元叔康)は処刑されました。
この事件は、世祖期以来の政治腐敗が表面化した象徴といえます。
睿宗の最後
1469年12月31日、病弱だった睿宗は20歳で亡くなりました。睿宗は京畿道高陽市にある昌陵に正妃・安順王后とともに埋葬されています。
睿宗の死後、子どもが幼かったため、兄の懿敬世子の息子・乽山君(成宗)が王位を継ぎました。
睿宗が登場するドラマ
睿宗は短命で目立った業績が少ないため、主役となる作品はほとんどありませんが、世祖・成宗・燕山君の間をつなぐ王として、しばしば登場します。
王と妃(1998年、イ・ヨンホ)
王と私(2007年、ユ・ドンヒョク)
インス大妃(2011年、ノ・ヨンハク)
( )内は演じた俳優
2021年に放映されたドラマ「恋慕」でパク・ウンビンが演じたイフィの父・恵宗は睿宗をモデルにしたといわれています。
まとめ
睿宗は12歳で父親となり、20歳で世を去った短命の王でした。政治的には母・貞熹王后と功臣らに支えられ、世祖期の混乱から成宗期の比較的安定した時代へと王権をつなぐ役割を果たしました。
在位はわずか1年2ヶ月にすぎませんが、王朝を円滑に移行させる重要な役割を果たしました。