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淑儀文氏(昭媛文氏)の家系図【出生の知れない謎の悪女の陰謀】

思悼世子の死にかかわった淑儀文氏とは、どんな女性だったのか。

淑儀文氏の家系図から調べてみました。

 

淑儀文氏の家系図

淑儀文氏の家系については、全く情報がありません。

父の思悼世子を死に追いやった最悪の側室として、正祖が徹底的に嫌ったからでしょう。

淑儀文氏に関する情報は全て抹消されたと考えられます。

 

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淑儀文氏はどんな側室だったのか?

淑儀文氏は英祖からの寵愛を利用して思悼世子を排除し、自分の子供が王位に就くことを夢見ていた思われます。

正祖の廃位後、淑儀文氏は「文女」と呼ばれていましたが、罪や処分の内容で何度も実録に出てきます。

 

淑儀文氏プロフィール

淑儀文氏の生年日、父親、母親の名前などの基本情報も残っていません。

淑儀文氏(スギムンシ)
生年:不詳
没年:1776年8月10日
享年:不詳
父:不詳
母:不詳
兄:文聖國(ムン・ソングク)

 

淑儀文氏の家族

淑儀文氏には英祖との間に2人の王女がいました。

二人共、結婚して子供をもうけています。

関係 名前 生年-没年 備考
英祖 1694-1776 第22代王
本人 淑儀文氏 不詳-1776
長女 和寧翁主 1752-1821 沈能建の妻、1男
次女 和吉翁主 1754-1772 具敏和の妻、1男2女

長女の和寧翁主は沈能建と結婚し、1男をもうけました。

淑儀文氏が処刑されても、連座になることはなく、70歳まで生きています。

 

次女の和吉翁主は、具敏和と結婚し、1男2女をもうけました。

正祖が即位した1776年には既に亡くなっていました。

 

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思悼世子の処罰に加担

淑儀文氏は老論派の中心人物だった金尙魯(キム・サンノ)や洪啓禧(ホン・ゲヒ)、正祖の大叔父の洪麟漢(ホン・イナン)、貞純王后の兄・金亀柱(キム・ギジュ)そして、自分の兄の文聖國らと結託して、思悼世子を攻撃しました。

英祖の側室だった淑儀文氏は積極的に思悼世子の悪口を英祖に告げたと言われています。

 

1762年9月14日の実録には、金尙魯が文女(淑儀文氏)と結託して、国本(思悼世子)を陥れたことを、多くの人は知っていたのに自分だけ知らず、処罰できなかっとことを後悔したと記録されています。

1762年5月21日に世子が亡くなってから、約4ヶ月後のことです。

上命特給前領府事金尙魯職牒, 仍許奉朝請, 上御金商門宣麻。尙魯久據相職, 貪饕陰譎, 人多目之。然其凶肚逆腸, 未克昭著, 及當宁下敎後, 國人始知暗附文女謀危國本之凶謀, 恨不得正法於生前耳
<英祖実録1762年9月14日抜粋>

 

淑儀文氏の生涯

淑儀文氏は、英祖の長子であった孝章世子の正妃・賢嬪趙氏に仕える女官でした。

賢嬪趙氏は若くして夫の孝章世子を亡くしたため、英祖が不憫に思い大変可愛がっていたといいます。

そのため、英祖は度々、賢嬪趙氏の元を訪れていました。

 

1751年11月14日、賢嬪趙氏が亡くなりました。

淑儀文氏は賢嬪趙氏の死を深く嘆き悲しむ英祖を慰めたことをキッカケに寵愛を受けたと言われています。

 

このとき、荘献世子は17歳、「兄嫁の女官ごときが」という思いが強かったのではないでしょうか。

二人の確執はこのときから始まったと思われます。

 

1752年、淑儀文氏は長女の和寧翁主を生み、翌年の1753年に昭媛(正四品)に冊封されています。

1754年、次女の和吉翁主が生まれました。

 

淑儀文氏は思悼世子の排除を目論む老論派と結託して、思悼世子の非行を英祖に告げていきました。

そして、遂に1762年5月21日、思悼世子は亡くなってしまいました。

 

誰もが知る米びつ事件です。

淑儀文氏が金尙魯と結託して思悼世子を陥れたことは多くの人が知っていたと実録にも記録されています。

当時、11歳だった正祖も当然、知っていたと思われます。

 

1771年に淑儀文氏は淑儀(従二品)に冊封されましたが、正祖が即位すると状況は一変します。

1776年3月10日に即位した正祖は、真っ先に淑儀文氏の爵位を剥奪、私邸に軟禁しました。

即位20日後のことです。

 

1776年5月13日、淑儀文氏は都城(漢陽)の外に追放されます。

そして、1776年8月10日、正祖は英祖の葬儀が終わるのを待って淑儀文氏に賜死を命じました。

この決断の速さを見ても、正祖の淑儀文氏に対する怒りが如何に大きかったかが分かります。

正祖は思悼世子の死に関係した兄の文聖國を処罰し、母を済州に送り奴婢としました。
しかし、淑儀文氏の娘を処罰することはありませんでした。

 

まとめ

淑儀文氏は英祖の寵愛を利用して思悼世子の非行を英祖に告げ、死に追いやった人物の一人です。

正祖の怒りは、即位後の淑儀文氏に対する扱いを見れば明らかです。

出生は全く不明な淑儀文氏ですが、側室になってからの悪行は誰もが知っていることだったようです。

 

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