歴史上、暴君と評される光海君(クァンヘグン)。クーデター(仁祖反正)により廃位され、その家族は悲惨な末路をたどりました。
この記事では光海君の家系図を中心に、家族構成、兄弟関係、即位と粛清、そして末路まで詳しく解説しています。
光海君(クァンヘグン)の家系図
光海君は第14代王・宣祖と側室・恭嬪金氏(コンビンキムシ)の次男として生まれました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<光海君の家系図>
側室・恭嬪金氏の子、しかも次男であることが、光海君にとって常に不安の種でした。宣祖が新たな王妃(仁穆王后)を迎え、息子(永昌大君)が生まれたこが、不安を王座を脅かす恐怖へと変えていきました。
この家系図から見えてくるのは、「庶子」でありながら王位に就き、やがて自らの血縁を粛清するという、光海君の複雑な宿命です。
【PR】スポンサーリンク光海君の家族構成と血縁関係
父の宣祖が側室との間に多くの子供をもうけたため、光海君には多くの腹違いの兄弟姉妹が存在します。
<父母と兄弟姉妹>
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 宣祖 | 1552-1608 | 第14代国王 |
正室 | 懿仁王后 | 1555-1600 | 子女なし |
継室 | 仁穆王后 | 1584-1632 | 子女:1男1女 |
異母妹 | 貞明公主 | 1603-1685 | |
異母弟 | 永昌大君 | 1606-1614 | 処刑 |
側室 | 恭嬪金氏 | 1553-1577 | 子女:2男 |
実兄 | 臨海君 | 1572-1609 | 処刑 |
本人 | 光海君 | 1575-1641 | 第15代王 |
側室 | 仁嬪金氏 | 1555-1613 | 子女:4男5女 |
異母弟 | 義安君 | 1577-1588 | 李珹 |
異母弟 | 信城君 | 1578-1592 | 李珝 |
異母弟 | 定遠君 | 1580-1619 | 李琈、綾陽君(仁祖)の父 |
その他 | 1男5女 |
母の恭嬪金氏と兄の臨海君
母の恭嬪金氏は、宣祖に大変寵愛されましたが短命でした。兄の臨海君は性格の問題で、世子になることはできませんでした。
恭嬪金氏|王に寵愛されたが短命
光海君の母は19歳で入宮すると、臨海君と光海君を出産。宣祖から深く寵愛されましたが、光海君出産後、わずか2年で25歳の若さで病死しています。
詳しくはこちら>>恭嬪金氏の家系図【短命だった宣祖に寵愛された光海君の母】
臨海君|粗暴で世子になれず
光海君の兄・臨海君は粗暴で度々、暴力事件を起こしていたので、世子になることができませんでした。
詳しくはこちら>>臨海君の家系図【王位を逃した光海君の兄の悲劇】
光海君の正室と側室
光海君は正室は1人でしたが、側室は9人いました。
多くの側室がいましたが、側室との間には女の子1人しか生まれませんでした。
<正室/側室と子ども>
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
正室 | 廃妃柳氏 | 1576-1623 | 柳自新の娘 |
不詳 | 不詳 | 1592-1592 | 早世 |
長男 | 不詳 | 1596-1596 | 早世 |
次男 | 李祬 | 1598-1623 | 廃世子 |
側室 | 昭儀尹氏 | 不詳-1623 | 尹弘業の娘 |
長女 | 不詳 | 1619-不詳 | 朴澂遠正室 |
側室 | 昭儀洪氏 | 不詳 | 洪邁の娘 |
側室 | 昭儀権氏 | 不詳 | 権余慶の娘 |
側室 | 淑儀許氏 | 不詳 | 許儆の娘 |
側室 | 淑儀元氏 | 不詳 | 元守身の娘 |
側室 | 昭容鄭氏 | 不詳 | 鄭象献の娘 |
側室 | 昭容任氏 | 1598-1628 | 任夢正の娘 |
側室 | 昭媛辛氏 | 不詳 | 辛鏡の娘 |
側室 | 宮人趙氏 | 不詳 | 趙誼の娘 |
妻(正室)の柳氏
光海君は柳自新の娘・柳氏と世子になるまえに結婚しています。光海君との間には3人の子どもを生みますが、成人したのは李祬だけでした。
詳しくはこちら>>廃妃柳氏の家系図【悲しい運命をたどった光海君の王妃】
息子の李祬
光海君の息子・李祬(イ・ジル)は1610年に13歳で世子になり、翌年の1611年に結婚しました。従って、李祬は光海君が廃位された時には、既に世子嬪がいました。
カヒは側室ではなかった
父・宣祖の寵愛を受けた金介屎は、光海君にも尚宮として仕えましたが、側室にはなりませんでした。
金介屎はキム・カヒまたはキム・ゲシと呼ばれ、李爾瞻(イ・イチョム)と組んで数々の悪行を行ったと言われています。
倭乱と分朝体制|光海君が世子に指名される
豊臣秀吉が明を征服して領土を拡張するために朝鮮に2回侵攻してきました。
1597年:丁酉倭乱
このとき、義州に避難した宣祖は、咸鏡道に避難した光海君を王世子に指名して分朝を任せています。
日本軍の朝鮮侵攻は、1598年に秀吉が亡くなり、ようやく終焉を迎えました。
即位と血縁者の粛清|王権強化のための過酷な決断
1608年、宣祖が亡くなり、光海君が第15代王として即位しました。光海君は側室の次男という王位継承の正統性の弱さから、即位後に血縁者を粛清することで、王権の強化を図りました。
臨海君(実兄):流刑ののち謎の死
永昌大君(異母弟):流刑地で蒸し焼きの刑
綾昌君(異母甥):反逆罪で処刑
仁穆王后(義母)、貞明公主(異母妹):幽閉
これらの粛清は、のちに「暴君」とされる大きな要因となりました。
仁祖反正と流刑生活|家族の悲劇の末路
1623年、綾昌君を殺された綾陽君がクーデター(仁祖反正)を起こし、光海君は廃位されて家族とともに江華島へ流されました。
過酷な流刑生活の中、息子夫婦は脱出を図るも失敗し処刑。妻の柳氏も絶望の末に自害しています。
光海君はただ一人生き残り、後に済州島へ移され、1641年に66歳で亡くなりました。
光海君の評価とドラマとの違い
従来、光海君は「暴君」として描かれてきましたが、近年では以下の点で評価の見直しが行われています。
・医療制度や税制の改革
・中立外交を維持
実際には、残虐な粛清は側近や大北派の主導であった可能性も高く、光海君自身の関与については再検証が進んでいます。
光海君の登場するドラマ
光海君(クァンヘグン)は良い王としても悪い王としても多くの時代劇ドラマに登場しています。
・1999年:ホジュン 宮廷医官への道
・2004年:王の女
・2013年:ホジュン〜伝説の心医〜
・2014年:王の顔
・2015年:華政
特に、おすすめのドラマは>>光海君をモデルにしたドラマ7選
まとめ
光海君(クァンヘグン)は宣祖の側室の子として生まれ、王位を継承しますが、正統性の弱さから血縁者を粛清し「暴君」と呼ばれました。
その結果、1623年に仁祖反正で廃位され、家族は流刑や自害など悲劇的な末路をたどりました。
しかし、戦乱下の統治や改革への功績から、近年では再評価も進んでおり、今後、光海君に対する新たな評価が発表されるかもしれません。