榠嬪朴氏(ミョンビン・パクシ)は、第19代王・粛宗が晩年に最も寵愛した側室でした。しかし、王妃や張禧嬪、淑嬪崔氏(トンイ)と比較して史料に残る記録は少なく、その人物像には多くの謎が残されています。
この記事では、榠嬪朴氏の家系図から人物像とその生涯、淑嬪崔氏との経歴比較を史料に基づき詳しく解説します。
榠嬪朴氏の家系図
榠嬪朴氏は、朴彦忱を始祖とする名門・密陽朴氏の出身です。朴彦忱は、新羅初代王・朴赫居世の子孫とされ、統一新羅第54代王・景明王の長男(密城大君)と伝えられる人物です。
榠嬪朴氏の家族情報は極めて限られており、父は朴孝健と伝えられること以外、母や兄弟については知られていません。これは、王妃や世子嬪に比べ、後宮の出自や家族情報が史料に詳しく記されないことが多いという、朝鮮王朝史料の記録の性格によるものです。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<榠嬪朴氏の家系図>
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榠嬪朴氏はもともと張禧嬪に仕える内人(宮女)でしたが、その後、粛宗の承恩を受け側室となりました。
ドラマの影響により粛宗の寵愛を受けた女性としてはトンイ(淑嬪崔氏)が有名ですが、史料を年代順に見ると、粛宗が晩年に最も寵愛した側室は榠嬪朴氏と考えられます。
榠嬪朴氏のプロフィール
榠嬪朴氏は記録の少ない女性で、息子の昍(フォン)以外の家族関係は史料上確認されていません。
榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)
生年:不詳
没年:1703年 8月27日
氏族:密陽朴氏
父:朴孝健(通政大夫)
母:不詳
夫:粛宗
息子:昍(延齡君/1699-1719)
榠嬪朴氏の生涯
榠嬪朴氏は朴孝健の娘として生まれました。幼少の頃の記録は有りませんが、宮女として入宮した後に承恩を受けたとみられます。
粛宗の寵愛を受ける
榠嬪朴氏が粛宗の寵愛を受けた時期については、1683年と1688年の二説があります。
1683年説は、張禧嬪が宮廷を追放されていた期間(1680-1684)との関係から推定されたものです。
一方、『粛宗実録』(粛宗24年11月4日の条)には1698年の懐妊時、粛宗が「出会って十年」と語った記録があり、これを根拠として1688年説が有力視されています。
昍(フォン)の誕生
1698年11月、懐妊が確認され、榠嬪朴氏は従四品の淑媛(スグォン)に昇格しました。
そして、1699年6月13日、王子・昍(フォン)が誕生します。王子誕生後、榠嬪朴氏の昇格は急速に進み、粛宗の寵愛の強さがうかがえます。
順調に昇格
1699年に従二品の淑儀(スグィ)、1701年に貴人(キイン)、1702年には側室最高位である嬪(ピン)に昇格しました。短期間での昇進は後宮において極めて異例であり、粛宗の寵愛の相手は淑嬪崔氏から榠嬪朴氏に移っていたと推測されます。
榠嬪朴氏の突然の死去
順風満帆の榠嬪朴氏でしたが、1703年7月15日に突然、亡くなっています。
䄙嬪 朴氏卒。 第二王子之母也。 命擧行禮葬, 優給祭需
<粛宗実録:粛宗29年7月15日(1703年)>
同年9月、粛宗は周囲の反対を押し切り、わずか5歳の昍を延齢君に冊立しました。
昍(フォン)の死
粛宗は幼くして母親を亡くした延齡君をより一層可愛がりました。しかし、1719年、延齡君は21歳で病死します。
粛宗が延齡君を大切にしたことは実録にも記録されています。
上以王子幼稚失母, 悲憐之, 常置左右, 撫視甚至
<粛宗実録:粛宗29年7月15日(1703年)>
延齡君が亡くなった翌1720年に粛宗も崩御しており、王にとって大きな精神的打撃だった可能性が指摘されています。
トンイと榠嬪朴氏の経歴比較
史料から出来事を表にして比較すると、1699年前後から後宮内の力関係に変化が見られます。
榠嬪朴氏は昇格を重ねる一方、淑嬪崔氏の良い記録は減少していきます。このことから、粛宗の寵愛の対象が徐々に榠嬪朴氏に移っていった可能性が推測されます。
| 淑嬪崔氏の史実 | 榠嬪朴氏の史実 | ||
| 1688年 | 承恩尚宮になる | ||
| 1692年 4月22日以降 | 承恩尚宮になる | ||
| 1693年 4月26日 | 懐妊、淑媛 昇格 | ||
| 1693年10月6日 | 第一子誕生 | ||
| 1694年 6月2日 | 懐妊、淑儀 昇格 | ||
| 1694年10月31日 | 第ニ子クム誕生 | ||
| 1695年 6月8日 | 貴人 昇格 | ||
| 1698年11月4日 | 懐妊、淑媛 昇格 | ||
| 1699年 6月13日 | 嬪 昇格 クムを延礽君に冊立 |
1699年 6月13日 | 第一子昍 誕生 |
| <粛宗の淑嬪崔氏に対する態度が変わり始める> | |||
| 1699年10月23日 | 淑儀 昇格 | ||
| 1701年 3月23日 | 貴人 昇格 | ||
| 1701年 8月14日 | 仁顕王后死去 | ||
| 1701年 9月23日 | 張禧嬪の呪詛を伝える | ||
| 1701年11月9日 | 張禧嬪 賜死 | ||
| 1701年10月以降 | 梨峴宮に移住 | ||
| 1702年10月18日 | 嬪 昇格 | ||
史料から見た榠嬪朴氏という人物
榠嬪朴氏は王子の生母であり、後宮として最高位にまで昇格した人物ですが、家系や逸話に関する記録はほとんど残されていません。
これは『朝鮮王朝実録』が主に政治記事を中心に記録する史書であり、後宮の名も政治事件や重要な出来事に関与した場合に記されることが多いためです。
このことから、榠嬪朴氏は「王には深く愛された女性」であったが、「政治に関与した人物ではなかった」と推測されます。
そして、張禧嬪や淑嬪崔氏のように政治的対立の中心に立つことがなかった点が、粛宗が晩年、榠嬪朴氏を寵愛した一つの理由と考えられます。
まとめ
榠嬪朴氏は記録の少ない謎多き女性でした。
しかし、家系図と年代記録を整理すると、王子誕生以降、粛宗の寵愛が淑嬪崔氏から榠嬪朴氏へ移っていった様子が読み取れます。
そして、史料に残る断片的な記録から、榠嬪朴氏は晩年の粛宗にとって非常に重要な存在だったことがうかがえます。