ドラマ「トンイ」では、トンイは王妃にはならず宮廷から出る道を選びます。
トンイが王妃になれなかった歴史的背景を検証してみました。
トンイが王妃になれなかった歴史的背景
トンイ(淑嬪崔氏)が「王妃になれなかった理由を歴史的な背景から検証していきます。
・側室からの王妃は大混乱を招いた例がある
・後ろ盾の老論派の力が益々強くなる恐れがあった
厳しい身分制度
朝鮮時代は厳格な身分制度を根底とする儒教を国教としていました。
そのため、賤民の出身のトンイが王妃になることは、賤民の国母が生まれることであり、官僚にとって許しがたいことでした。
たとえ、粛宗であっても無理押しすることはできなかったと考えられます。
側室からの王妃は大混乱を招いた
張禧嬪は側室から王妃になりました、しかも、中人出身として初めて王妃になりました。
しかし、その張禧嬪を王妃にしたことで、宮廷が大混乱になりました。
また、張禧嬪以前に側室から王妃になった女性は張禧嬪を含めて4人いました。
その一人が残虐な暴君で有名な燕山君の生母、廃妃・尹氏(ペビユンシ)です。
張禧嬪、廃妃・尹氏と4人の内2人が宮廷に大混乱をもたらしました。
このことが、側室は王妃にしないという、粛宗の決断に大きく影響したことは間違いないと考えます。
老論派の力が強くなる恐れ
粛宗は強くなった党派を弱体化させることで王権を強くしてきました。
粛宗が最も恐れたこと、それは一つの党派が王権をも揺るがす力を持つことでした。
当時、老論派は大きな力を持ち始めていました。
もし、王妃がトンイ(淑嬪崔氏)になると、支持している老論派(西人から分裂)の力が益々強くなると思われました。
そこで、トンイ(淑嬪崔氏)を側室として残し、世子を変えなかったのではと推定されます。
当然、トンイ(淑嬪崔氏)が王妃になれば、正室の子供である延礽君は世子にならざるを得ません。
その結果、老論派の力は大きくなり、次の王の代まで続くことが保証されます。
老論派からの意見をキッパリと切るために、粛宗は「今後、側室を王妃にしない」という法を定めたとも考えられます。
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粛宗の政治運営
粛宗は人為的に強い政党を入れ替えること(換局)で王権を強化し、政治的な安定を図りました。
つまり、政党が王権を脅かすほど勢力を増す前に、弱体化して政治の中心の政党を入れ替えていたのです。
そのため、政党が支持する王妃は、政争に振り回されることになりました。
西人が一掃、南人の天下になる
1689年1月15日、張禧嬪が嬪になり、同時に李昀が王世子となりました。
この年の5月、西人が支持する仁顕王后(中殿)が廃妃となり、張禧嬪が王妃になります。
これにより、西人は朝廷から一掃され、張禧嬪を支持する南人の天下になりました。
西人(老論派)の力が強くなる
1694年10月31日、トンイにクムが生まれました。
この年の4月、大きくなりすぎた南人が一掃されます。
張禧嬪が降格され、再び、仁顕王后が中殿に復帰しています。
しかし、1701年9月16日、仁顕王后が死去、同年11月9日に張禧嬪が賜薬により死去しました。
このとき、老論派はトンイを支持していました。
粛宗の最後の決断
王妃の座は空きましたが、粛宗は「側室は王妃にしない」と決断します。
そして、新たな王妃を迎えました。
新しい王妃の仁元王后は少論派でした。
こうした歴史的背景があり、単に人格が優れている、王子を産んだ、強力な支持政党があるだけの条件では王妃になれなかったのです。
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トンイの意外な処遇
歴史的背景とは少し異なりますが、粛宗のトンイ(淑嬪崔氏)に対する処遇にも変化がみられました。
トンイ(淑嬪崔氏)は宮廷の外に住むことになりますが、粛宗が頻繁に通った記録はありません。
最後は、延礽君の屋敷で亡くなりますが、葬儀も質素だったようです。
こうした、粛宗の気持ちの変化には別の女性の存在がありました。
その女性とは、もう一人の側室・榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)です。
榠嬪朴氏はヘチ王座の道にも登場したクムの異母弟のイ・フォンの生母です。
粛宗は幼いイ・フォンと榠嬪朴氏をとても大切にしました。
こうした状況を考えると、粛宗のトンイ(淑嬪崔氏)への思いは既に冷めていたと考えられます。
詳しくは>>トンイは実話か創作か?【驚き!史実はドラマより奇なり】を御覧ください。
まとめ
歴史的背景を考えると、トンイ(淑嬪崔氏)が王妃になる可能性は限りなく少なかったと思います。
・老論派の力が強くなることを嫌った
・側室と中殿は全く別のものと判断した
・トンイへの熱が冷めていた
などの理由が複雑に働いた結果ではないでしょうか。
しかし、今となっては、粛宗の考えを知るすべはありません。
あるのは、トンイ(淑嬪崔氏)が王妃になれなかった(ならなかった)という事実だけです。