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宣懿王后の家系図【若くして亡くなった謎の多い王妃】

若くして亡くなり謎の多い宣懿王后です。

宣懿王后とはどんな王妃だったのか?

家系図から詳しく調べてみました。

 

宣懿王后の家系図

咸従魚氏は中国左馮翊出身の魚化仁を始祖とする氏族です。

魚化仁は南宋の戦乱を避けるため、江原道に亡命した後に、平安道の咸従県に定住、咸従魚氏を創始しました。

<宣懿王后の家系図>

 

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宣懿王后はどんな王妃だったのか?

何事にも慎重な性格で品格のある女性だったと言われています。

 

宣懿王后のプロフィール

宣懿王后(ソニワンフ)
生年:1705年10月29日
没年:1730年6月29日
享年:26年
夫:景宗
氏族 咸従魚氏
父:魚有亀(領敦寧府事)
母:完陵府夫人(全州李氏)

 

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宣懿王后の家族

景宗の病気によるためか、子は生まれませんでした。

父親は老論派の中核にあたる人物でした。

関係 名前 生年-没年 備考
魚有亀 1675-1740 領敦寧府事
完陵府夫人 不詳 全州李氏
景宗 1688-1724 第20代王
本人 宣懿王后 1705-1730
子供 なし
魚錫定 不詳
魚錫寧 不詳
不詳 不詳 金時敎の妻
不詳 不詳 李普祥の妻
不詳 不詳 洪啓九の妻
不詳 不詳 沈履之の妻

 

宣懿王后の生涯

1705年、魚有亀の娘として漢城府東部崇強坊で生まれました。

1718年、世子嬪(端懿王后)が亡くなり、14歳で世子(景宗)の継室となります。

 

1720年、粛宗が亡くなり、景宗が第20代王として即位すると王妃に冊封されました。

このころ、朝廷では景宗を支持する少論派と延礽君(後の英祖)を支持する老論派が激しい争いを繰り広げていました。

 

1721年から1722年にかけて、辛壬士禍が起こり、多くの老論派の官僚とその親族が粛清されました。

その結果、少論派が朝廷を掌握します。

当然、老論派である宣懿王后の父・魚有亀も粛清の対象になるはずですが、処罰を逃れています。

 

魚有亀が無事だったのは少論と結託した結果ではないかと言われています。

しかし、宣懿王后と英祖の仲はあまり良くなかったようです。

1724年、景宗が37歳で突然亡くなりました。宣懿王后はまで20歳でした。

 

1728年に李麟佐の乱が勃発します。

李麟佐は全国にバラ撒いた檄文の中で、

・景宗が英祖と老論派により毒殺された
・昭顕世子の子孫を王とし王系統を正す
・王大妃の密命をうけてこれを実行する

と、訴えたといいます。

つまり、王大妃(宣懿王后)から密命を受けた言われていますが、この真実は定かではありません。

1730年、李麟佐の乱の2年後に宣懿王后は26歳の若さで亡くなっています。

 

まとめ

景宗の継室として、入宮した宣懿王后ですが、早くに夫の景宗を亡くしています。

宣懿王后自身も26歳の若さで亡くなり、目立った記録も見当たりません。

 

景宗が即位したとき16歳、景宗が亡くなったときは、まだ20歳でした。

宣懿王后は、それから6年後に亡くなりますが、王子を生むこともなく、派閥闘争の中で生きた短い一生でした。

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