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朝鮮王朝の聖君ランキング【名君、暴君、ダメ王をランキング】

聖君とは治世において、自ら率先し優れた業績を残し、後世から範とされる王です。

朝鮮王朝の聖君をランキングでご紹介します。

また、反対に暴君やダメ王は誰なのか?

こちらもランキングでご紹介しています。

朝鮮王朝の聖君ランキング

朝鮮王朝最高の聖君は第4代国王の世宗(セジョン)です。

世宗は現代でも最も人気のある王で、お札の肖像画や銅像に採用されています。

<聖君ランキング>
1位:第4代王・世宗
2位:第22代王・正祖
3位:第21代王・英祖

世宗、正祖、英祖の3人の業績、人材育成、後世への影響度を比較しました。

やはり、世宗が断トツの評価です。

政治業績 文化業績 経済業績 人材育成 後世影響 総合点数
世宗 100
正祖 75
英祖 60

◎:20点、◯:10点、△:5点

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第4代王・世宗(第1位)

多大な業績を残し、多くの人材を育て、後世に大きな影響を残した王といえば断トツ世宗が一番です。

世宗は現在でも、一番人気の高い王で、多くの施設にその名が使われています。

世宗特別自治市(都市名)
世宗大王 (駆逐艦)
世宗基地(南極観測基地)
世宗文化会館、世宗研究所、世宗大学校
など

 

世宗は政治だけでなく多くの分野で多大な業績を残しています。

朝鮮王朝時代の文化的な成果はすべて、世宗の時代に成し遂げられたと言っても過言ではありません。

まさに、世宗の時代は朝鮮文化の黄金時代でした。

中でもハングルの創製は現代人に人気の一番目の理由です。

<世宗の5大業績>
・ハングルの創製
・集賢殿による人材育成と学問の発達
・国土の拡大
・農業と科学技術の向上
・文化芸術の保護

詳しくは>>補足資料の「世宗の5大業績」をご覧下さい。

 

第22代王・正祖(第2位)

正祖は奎章閣により、多くの有能な人材を育成し、文化・経済に貢献しました。

また、特定商人の専売権の廃止により、商業の自由化を推進して、経済の発展に寄与しました。

<正祖の4大業績>
・奎章閣での人材育成
・辛亥通共による商業の自由化
・武芸図譜通志による武術の体系化
・水原華城の築城

詳しくは>>補足資料の「正祖の4大業績」をご覧下さい。

多くの改革を推進した正祖でしたが、残念なことに、死後、貞純王后が改革の大部分を無に帰してしまいました。

 

第21代王・英祖(第3位)

派閥争いにとても悩まされた英祖は蕩平策により、派閥権力の均等化を図りました。

<英祖の業績>
・蕩平策により党争を抑える
・多くの書籍を刊行、文芸を復興する

蕩平策とは、全ての役職を少論と老論の両党から均等に採用し、どちらか一方に権力が傾かないようにバランスととる政策でした。

 

しかし、蕩平策には反対も多く、定着するには時間がかかりました。

蕩平策が実現できたのは、英祖の粘り強い性格と朝鮮王朝最長の51年7ヶ月に及ぶ在位期間があったからでした。

 

英祖は民の声をよく聞いた王としても有名です。

均役法を実施して国民の税負担を大きく減らしたときも、実際に宮廷外に出て、実際に民の声を聞いたそうです。

また、多くの書籍を刊行して民衆に書籍を広め、文芸を復興に務めました。

 

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朝鮮王朝の暴君ランキング

なんと言ってもNo1の暴君は燕山君です。

2位以下は、功績から名君と称される一面もありますが、その非道な行いから暴君イメージの強い王と言えるかもしれません。

<暴君ランキング>
1位:第10代王・燕山君
2位:第7代王・世祖
3位:第3代王・太宗(李芳遠)
4位:第15代王・光海君

 

第10代王・燕山君(1位)

燕山君が起こした「甲子士禍」は史上最悪の粛清と言われています。

母の尹氏を陥れた側室を無惨な方法で殺害、母の毒殺に関係した約50人を一斉に処刑しました。

 

更に、7か月以上に渡って関係したものの調査が行なわれ、多くの要人が死刑または流刑に処されました。

すでに亡くなっているものは、墓を暴き首をはねたと言われています。

処刑者は百余人にも及びました。

 

また、朝鮮全土から美しい女性を円覚寺に集めて、王の享楽の場にしてしまいました。

最高学府の成均館も妓生らとの遊興の場に変えるなどやりたい放題でした。

諫言する功臣たちはことごとく残酷な刑罰で処刑されたため、黙認せざるを得ない状況だったといいます。

 

第7代王・世祖(2位)

若い王・端宗が即位すると、王位を虎視眈々と狙っていた世祖は遂にクーデターを起こしました。

癸酉靖難です。

世祖は対立する政敵の金宗瑞を自宅で殺害すると、金宗瑞の味方を宮廷に呼び出し、一挙に殺害しました。

 

孤立した端宗は譲位せざるを得ず、世祖は遂に王に就きます。

端宗復位運動が発覚すると、世祖は端宗復位運動の根を断つために端宗に賜死を命じます。

 

王としての器を持ち、即位後は多くの実績を上げた世祖です。

しかし、王になるまでの方法、政敵を殺害した方法、幼い王を死に至らしめた方法が暴君のイメージを植え付けています。

 

第3代王・太宗/李芳遠(3位)

太宗は本名の李芳遠の方が有名かもしれません。

王位に就くために、兄弟、親族を次々と殺害した無慈悲な王です。

 

李芳遠は自分が王の器であると自負していたにも関わらず、李成桂は寵愛する継妃・神徳王后の子・李芳碩を世子と決めました。

李芳遠は李芳碩を推している鄭道伝ら重臣を、口実を付けて殺害、更に、世子の李芳碩とその兄・李芳蕃をも殺害してしまいます。

1398年の第一次王子の乱です。

 

1400年の第二次王子の乱では、王位に野望をもち反乱を起こした兄の李芳幹を捕らえて流刑にしてしまいました。

 

李芳幹は太宗に即位すると、王権強化のために次々と親族を殺害や流刑にしていきます。

まずは、1404年に太宗は長女の貞順公主の義父である李居易とその息子の李佇を、既に結審されたはずの罪で流刑にしました。

 

更に、外戚が政治的に大きな権力を持つことを恐れた太宗は、元敬王后の4人の弟(閔無咎、閔無疾、閔無恤、閔無悔)をすべて粛清してしまいました。

元敬王后はこのことを痛く悲しみ、太宗との関係は最悪の状態になったといいます。

 

また、1418年には息子・世宗の妃である昭憲王后の実家も粛清の対象としています。

世宗の義理の父である沈温に謀反の罪を着せて処刑、沈温の妻と一族は奴婢にされてしまいました。

 

王権強化のためとはいえ、自分の座を脅かす恐れのある親族を次々と粛清していく太宗は、暴君というよりも非道の王といった方が正しいかもしれません。

しかし、一方で太宗は王権を強化、朝鮮王朝の基礎を築いた名君と評価される一面もあります。

聖君と称される世宗の輝かしい業績は、太宗の暴君と呼ばれる極悪非道な政治の安定の上に花開いた業績であることは間違いありません。

 

第15代王・光海君(4位)

光海君は暴君として廃位されていますが、最近の研究では実際には暴君でなかった可能性があると指摘されています。

光海君を暴君に印象づけるのは、幼い弟の殺害、仁穆大妃を初めとする肉親の王族の廃位、西人派の粛清です。

しかし、これらは光海君自身の決定ではなく、側近らによる謀略だったとも言われています。

 

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朝鮮王朝のダメ王ランキング

ダメ王ランキングのNo1は「無能な王」として有名な第16代王の仁祖です。

No2は跡継ぎがいなくて、流配地で農業を営んでいたところを王に担ぎ出された哲宗です。

<ダメ王ランキング>
1位:第16代王・仁祖
2位:第25代王・哲宗
3位:第11代王・中宗
4位:第14代王・宣祖

詳しくは>>朝鮮王朝のダメ王ランキング【不甲斐く、残念なダメ王は誰?】をご覧下さい。

 

補足資料

 

世宗の5大業績

世宗は数多くの業績を残しています。

その中でも、特に注目される5大業績をご紹介します。

 

ハングルの創製

世宗の業績で最も大きなことはハングルの創製です。

ハングルにより、多くの人が自分の言葉を文字で伝えることができるようになりました。

後世への影響は計り知れないものがあります。

 

集賢殿による人材育成と学問の発達

世宗は集賢殿(チッピョンジョン)を再編し、前途有望な若者を集めて人材育成を行いました。

特に有望な人材には、長期休暇を与えて、実務から離れ寺院に籠もって学問に専念させる機会を与えました。

この制度を賜暇読書(サガドクソ)制度といいます。

 

学問の範囲は天文学、地理、医薬、農学、音楽から兵法に至るまで広い範囲を自由に選択させています。

研究の成果は集賢殿で書物としてまとめ刊行されました。

集賢殿は世宗の文化事業を担った多彩な人材の産出と学問の発展に多大な貢献をすることになります。

 

特に、官奴であった蔣英実(チャン・ヨンシル)は、世宗に才能を見出され、多くの天文観測器具を作り上げました。

高麗王朝の高官の息子であった蔣英実は、朝鮮建国時に賤民(奴婢)の身分に落とされていましたが、後に功績を認めて奴婢の身分から免賤しています。

 

国土の拡大

1433年、世宗は崔潤徳に女真族討伐を命じてから7年かけて、鴨緑江上流に四郡(閭延、慈城、茂昌、虞芮)を設置、女真族の占領地を朝鮮の領地としています。

また、同時期に金宗瑞に東北地方の領土拡大を命じ、約15年かけて北方の要塞となる六鎮(穏城、鐘城、会寧、富寧、慶興、慶源)を完成させました。

この四郡と六鎮の構築により、朝鮮の北方領土を豆満江・鴨緑江沿岸まで拡大しました。

 

農業と科学技術の向上

世宗は農業を非常に重要視しました。

中国からの農法ではなく、朝鮮半島の在来の農法を研究させて、朝鮮に適した農法を発展させました。

各地方の観察使を使って地方の農民から農業技術を集め、「農事直説」として成文化しています。

これにより、朝鮮独自の農法を国内全土に広めることに大きく貢献しました。

 

また、朝鮮独自の農法を確立するために、天文学などの科学技術にも注目、蒋英実(チャン ヨンシル)などの科学者を支援しました。

その結果、天体観測器具、日時計、測雨器など多くの科学器具を開発させています。

 

今までは、中国の「暦」により農業を営んできましたが、天体観測器具の発明により、朝鮮独自の「暦」を作ることができました。

これにより、朝鮮半島の国土に適した農業を行うことができ、農業が大きく発展していきます。

科学器具は農業の発展だけでなく、多くの面で国土安定に大きく貢献しました。

 

文化芸術の保護

世宗は文化芸術に対しても関心を示し、音楽や絵画の発展や保護に貢献しています。

朴堧の音楽の才能を見抜いた世宗は宮中の音楽を司る慣習都監を設置、朴堧に提調という役職を命じました。

音楽に専念できるようになった朴堧は、新羅時代から伝わってきた郷楽、唐の国からの唐楽、宋の国から伝わった雅楽などを研究、宮廷音楽の基礎を築きました。

 

正祖の4大業績

正祖も世宗のように多くの業績を残しました。

ここでは、その中の4大業績をご紹介します。

 

奎章閣での人材育成

奎章閣(キュジャンガク)は正祖が設立した王立図書館に相当する機関です。

<奎章閣の外観>

歴代王の絵画、詩や蔵書などを保管・管理していました。

しかし、奎章閣は単なる図書館ではなく、優秀な人材を集めて、古来の文献を研究したり、更に西洋の最新技術を学ぶ人材育成の場として用いていました。

 

辛亥通共による商業の自由化

辛亥通共(シネトンゴン)とは、「誰でも届け出を出せば、商売をすることができる」という法律です。

従来は、禁乱廛権(クムナンジョンクォン)という、特定商人しか商売ができないという法律で市場は特定の商人に独占されていました。

 

この法律が自由経済を阻害し、また、特定の商人の利益が老論派に政治資金として流れるなど悪の温床となっていました。

1791年の正祖による辛亥通共の施行は経済の大きな転機となり、その後の自由経済の発展に大きく寄与しました。

 

武芸図譜通志による武術の体系化

武芸図譜通志(ムイェドボトンジ)は、1790年に武官の白東脩(ペク・ドンス)が中心になってまとめた全4巻24項目の兵法書です。

拳法、弓術、馬術、槍術、剣術などの朝鮮の武芸が詳細に解説されています。

<武芸図譜通志>

その特長は戦闘時の動作を文章だけでなく、絵で分かりやすく丁寧に記載されていることです。

これにより、武術が体系化され、兵士育成に大きく貢献しました。

なお、挿入絵は金弘道(キム・ホンド)が描いています。

 

東洋と西洋の築城術の結晶・水原華城

正祖は父の墓を朝鮮一の吉祥地である華山に移し、1794年から水原華城の築城を開始しました。

<水原華城の外観図>

水原華城は実学者の丁若鏞が東洋と西洋の都市の長所をともに活かした最先端の戦闘要塞となりました。

築城には滑車の原理を利用した挙重機やろくろを考案し、10年工期をたったの2年9か月で完成させています。

 

水原華城の築城にあたり、最先端の防御要塞が出来ただけでなく、最先端の建築技術を構築することができました。

正祖は旧来の老論勢力からの脱却を図るために、水原への遷都を考えていましたが、残念ながら急死により実現できませんでした。

 

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