恭恵王后は姉妹で王妃になった朝鮮王朝で唯一の王妃です。
また、恭恵王后の氏族の清州韓氏は4人の王妃と1人の大妃を輩出した名門の氏族です。
恭恵王后とはどんな王妃だったのか。
恭恵王后の家系図から詳しく調べてみました。
恭恵王后の家系図
恭恵王后は歴史に残る武将や学者、政治家を輩出した清州韓氏(チョンジュハンシ)の出身です。
始祖は高麗の大功臣である韓蘭(ハン・ラン)です。
前例のない姉妹で王妃の家系
恭恵王后は韓明澮の4番目の娘で、章順王后は実の姉にあたります。
朝鮮王朝の歴史において姉妹が揃って王妃となったのは恭恵王后と章順王后だけです。
<恭恵王后の家系図>
多くの王妃を輩出した清州韓氏
清州韓氏からは、章順王后、安順王后、恭恵王后、仁烈王后の4人の王妃がでています。
また、義理の母・仁粋大妃も清州韓氏の出身です。
<多くの王妃を輩出した清州韓氏>
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恭恵王后はどんな王妃だったのか?
恭恵王后はとても心優しい、おとなしい王妃だったようです。
王妃になっても子供ができす、側室を迎えることになりますが、嫌な顔ひとつしなかったと言われています。
また、病気で倒れたときも、心配で食事も喉を通らない母親を逆にひどく心配したそうです。
一時は回復した病も、再発し18歳の若さで亡くなりました。
恭恵王后のプロフィール
恭恵王后(コンヘワンフ)
在位:1470年11月29 -1474年4月15日
諡号:徽懿慎粛恭恵王后
生年:1456年10月11日
没年:1474年4月15日
埋葬:順陵
配偶者:成宗
氏族:清州韓氏
父親:韓明澮
母親:黃驪府夫人(驪興閔氏)
恭恵王后の生涯
恭恵王后の生涯は18年間と本当に短い生涯でした。
しかも、最後の1年間は病魔との戦いでした。
年 | 出来事 |
1456年 | 韓明澮の四女として生まれる |
1467年 | 12歳で李娎(成宗)と結婚 |
1469年 | 成宗が即位して王妃になる(14歳) |
1473年 | 病にかかり療養のために実家へ戻る |
王宮に戻るが、同年12月に再発 | |
王妃の希望で昌徳宮求賢殿に移る | |
1474年 | 18歳の若さで死去、恭恵王后に追贈 |
恭恵王后が李娎(成宗)と結婚したのは、祖父となる世祖の考えだったといいいます。
成宗は恭恵王后の病状を大変に心配して、実家に戻ったときは一日置きに、王宮に戻ったときは毎日見舞に訪れたと言われています。
生涯、成宗との間には子供はできませんでした。
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恭恵王后の家族
父親の韓明澮は世祖を王にした功績で出世し、朝廷の要職を歴任した重臣でした。
また、姉は第8代国王・睿宗の王妃・章順王后です。
関係 | 名前 | 生年ー没年 | 備考 |
父 | 韓明澮 | 1415-1487 | 上党府院君 忠成公 |
母 | 黄驪府夫人 | 不詳-1479 | 驪興閔氏 |
長男 | 韓堡 | 1447-1522 | 琅城君 襄胡公 |
長女 | 章順王后 | 1445-1461 | 睿宗の正室 |
次女 | 不明 | 不詳 | 高霊府院君の長男の申澍の夫人 |
三女 | 不明 | 不詳 | 貞顕翁主の長男の尹磻の夫人 |
四女 | 恭恵王后 | 1456-1474 | 成宗の正室 |
恭恵王后の父親
恭恵王后の父親の韓明澮(ハン・ミョンフェ)は幼い頃に親をなくし、不遇の少年時代を送りました。
科拳には、何度も失敗して38歳でようやく官職に就きます。
時勢を読むことに長けていた韓明澮は将来への希望は失いませんでした。
首陽大君に憧れていた韓明澮は友人である権擥を通じて首陽大君(後の世祖)に近づきました。
そして、1453年の癸酉靖難で活躍して、遂に世祖の片腕となります。
その後は、着実に出世を重ねて朝廷の最高職である領議政にまで登りつめます。
しかし、1474年に恭恵王后が亡くなると権力にも陰りが見え始めました。
成宗が王位に就いたのは恭恵王后のおかげ
先代の睿宗が20歳、在位1年2ヶ月で急死しました。
睿宗の子供はまだ、3歳と幼く、兄の月山大君は病弱のため、次男の成宗が王になったと言われています。
しかし、実は韓明澮が娘・恭恵王后の夫である成宗が王になるよう貞熹王后に取り入りました。
月山大君が病弱で王位を任せられないことは口実だったようです。
恭恵王后が出るドラマ
恭恵王后は若くして亡くなりエピソードもほとんど無いことから、登場するドラマは多くはありません。
王と妃(1998年、シン・ジス)
王と私(2007年、ハン・ダミン)
インス大妃(2011年、イ・ジウ)
( )内の名前は演じた女優
まとめ
恭恵王后の氏族である清州韓氏は4人の王妃と1人の大妃を輩出した名門氏族でした。
また、恭恵王后と章順王后が姉妹で王妃になったことは、朝鮮王朝500年の歴史で前例がないことでした。
しかし、章順王后は夫の睿宗を若くしてなくし、恭恵王后は自ら若くして亡くなりました。
その結果、父親・韓明澮の栄華も長くは続きませんでした。