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密豊君(みるぷんぐん)の家系図【王位継承者と言う理由とは】

ドラマ「ヘチ王座への道」の密豊君(みるぷんぐん)は、自分が王位継承者であると考えています。

その理由を、密豊君(みるぷんぐん)の家系図から調べてみました。

 

密豊君(みるぷんぐん)の家系図

密豊君(みるぷんぐん)は第16代仁相の息子である悲劇の昭顯世子の血を引く子孫でした。

トンイ(淑嬪崔氏)やクム(延礽君)の遠い親戚になるんです。

 

密豊君(みるぷんぐん)は誰の子?

<密豊君の家系図>

密豊君の曽祖父である昭顯世子は第16代国王・仁祖の長男です。

通常であれば、次期王様になるべき人でした。

 

そして、密豊君の祖父の慶安君は次期王様(王世子)の子供でした。

王世子だった昭顯世子が亡くなれば、当然、その子供である祖父の慶安君が世子になるべきでした。

だから、ドラマ「ヘチ王座の道」では、王様になるべき人の子孫である密豊君は当然、「自分が正当な王位継承者である」と考えていたのです。

 

では何故、密豊君の祖父・慶安君は王位を継承することができなかったのでしょうか?

実は、祖父・慶安君に大きな悲劇が起こったのです。

 

謎の死を遂げた慶安君の父・昭顯世子

その理由は、仁祖が清に降伏して屈辱的な三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)を行ったことに起因します。

三跪九叩頭の礼とは、清の皇帝ホンタイジの前で仁祖が土下座をしたことで、朝鮮が清の従国であることを認めたことになりました。

これにより、長男の昭顯世子と次男の鳳林大君は清に人質として送られます。

 

1645年に昭顯世子は人質を解かれて帰国しました。

昭顯世子は8年間の清での生活で、すっかり清の経済や文化に啓蒙されてしまいます。

 

こんな昭顯世子を仁祖はよく思いませんでした。

土下座させられた恨みから仁祖は清を敵視していたからです。

一方、次男の鳳林大君は仁祖同様、清に恨みを持ち続けていました。

 

昭顯世子は帰国して2ヶ月後に謎の急死をします。

仁祖との仲が険悪であったことから毒殺とも言われています。

 

昭顯世子が亡くなったら、当然、その子供の慶安君が世子になるはずでした。

しかし、清に土下座させられた恨みを持っていた仁祖は、次男の鳳林大君を世子として王位を継承させました。

清を啓蒙した昭顯世子の息子の慶安君より、自分と同様に清に恨みを持つ鳳林大君を選んだのです。

このような理由で、慶安君は王位に付くことができず、次男の鳳林大君が王位を継承して第17代国王・孝宗となりました。

 

慶安君の母親の賜死と一族の流刑

昭顯世子が急死すると、さらに、追い打ちを書けるように慶安君の一族には悲劇が起こります。

昭顯世子の妻である愍懐嬪姜氏(ミンフェビン カンシ)が仁祖に毒を盛ったとの告発により廃位された上に賜死(シシ)を命じられます。

 

そして、愍懐嬪姜氏の兄弟と息子たちは全員が流刑になりました。

これで、密豊君の祖父・慶安君の王位への道は閉ざされてしまいました。

 

祖父・慶安君の死

昭顯世子の三男であった密豊君の祖父・慶安君も流刑になりますが、唯一、生き残り生存します。

解放された慶安君はその後結婚して、密豊君の父親・臨昌君(李焜)を生んでいます。

しかし、慶安君はやっと解放され、家族までできたのに何と21歳の若さで病死してしまいました。

 

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曾祖母・姜嬪(カンビン)の地位の回復

ヘチ王座への道で粛宗が姜嬪(カンビン)の地位を回復したことで、密豊君が喜びをあらわにします。

これは何故でしょうか?

姜嬪(カンビン)とは密豊君の曾祖父に当たる昭顯世子の妻のことです。

つまり、密豊君の曾祖母にあたります。ひいばあさんです。

当時は姜嬪(カンビン)は世子嬪(セジャビン)でした。

 

夫の昭顯世子が死んだ翌年に、姜嬪(カンビン)は仁祖に毒をもった罪で平民に降格の上、死罪になっています。

つまり、密豊君の曾祖母は平民の身分だったのです。

その姜嬪(カンビン)の身分を、1718年に粛宗が回復して愍懷嬪(ミンヘビン)としました。

これによって、姜嬪(カンビン)の子孫である密豊君の格も高まり、密豊君はより王位継承に近づいたと考えたのです。

 

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密豊君(みるぷんぐん)とは?

密豊君の祖父の慶安君は流刑になりますが、生き延びて父親の臨昌君(李焜)と次男の臨城君を生みます。

そして、臨昌君(イムチャングン)と凝川郡夫人朴氏との間に密豊君が生まれました。

 

密豊君はどんな人物?

<密豊君のプロフィール>
生年:1698年3月29日
没年:1729年4月26日
享年:32歳
本名:李担(イ・タン)
妻:郡夫人林川趙氏
子供:5男4女

 

密豊君の父母と兄弟

密豊君には5人の弟がいました。

続柄 名前 読み方 本名
臨昌君 イムチャングン 李焜(イ・コン)
凝川郡夫人朴氏
長男 密豊君 ミルプングン 李担(イ・タン)
次男 密南君 ミルナムグン 李堪
三男 密原君 ミルウォングン 李墉
四男 密川君 ミルチョングン 李墰
五男 密平君 ミルピョングン 李㙫
六男 密雲君 ミルウングン 李壎

 

密豊君のお墓

密豊君は祖父の慶安君、父親の臨昌君とともに京畿道高陽市徳陽区大慈洞に埋葬されています。

小高い丘の上に見えるのが祖父・慶安君のお墓、その手前に父・臨昌君と密豊君のお墓があります。

<慶安君、臨昌君、密豊君のお墓>

 

密豊君の父親(臨昌君)

密豊君の父親は仁祖の曾孫にあたる臨昌君です。

ドラマ「ヘチ 王座への道」では、密豊君を厳しく叱る親として登場しています。

<父親・臨昌君のプロフィール>
生年:1663年
没年:1724年2月28日
享年:62歳(日本では61歳)
姓・諱:李焜(イ・コン)
妻:凝川郡夫人朴氏
生前の最高官職:顯祿大夫(正一品)

1676年、密豊君の父親・李焜は世子の孫にあたることから、14歳のときに臨昌君(從一品)の称号を与えられました。

臨昌君は4年後の1680年に濡れ衣で逮捕され、済州島に流刑となりますが、無実であることが分かり開放されます。

 

その後、臨昌君は1697年に謝恩使となり清に4回派遣されました。

1704年には延礽君と最初の妻・貞聖王后との結婚式を主宰するなど、晩年、粛宗の臨昌君に対する信頼は高かったといいます。

 

密豊君(みるぷんぐん)の家族

密豊君と正室の郡夫人清風金氏の間には子供はできませんでしたが、側室の郡夫人林川趙氏との間には5男4女の子供がいました。

密豊君
正室 郡夫人清風金氏 子女なし
側室 郡夫人林川趙氏 5男4女 長男:李觀錫
次男:李晉錫 一度、延齢君の養子になる(注1)
三男:李恒錫 密原君の養子になる
四男:李謙錫 賜死
五男:李益錫 賜死
長女 趙夔命と結婚
次女 宋瑜と結婚
三女 林度遠と結婚
四女 金商弼と結婚

注1)李麟佐の乱後に、破断になりました。

 

密豊君の最後(李麟佐の乱)

李麟佐の乱とは、1728年3月15日に李麟佐(イ・インジャ)が密豊君(みるぷんぐん)を担ぎ出して起こした反乱です。

李麟佐の乱は2週間程度で鎮圧されて密豊君は捕まり、王族であった密豊君は賜死(シシ)させられました。

主犯の李麟佐は捕まり処刑されました。

李麟佐の乱は起こった年の名前をとって戊申(ムシン)の乱とも呼ばれています。

 

この乱では李麟佐に加担した罪で密豊君の息子も処刑されています。

悲惨な最後になった密豊君の家族ですが、実際に密豊君が王座を欲しがっていたのかは分かっていません。

 

まとめ

密豊君(みるぷんぐん)は第16代国王・仁祖の長男の血を引く子孫でした。

そこで、ドラマ「ヘチ王座への道」では密豊君が「王位継承は自分がすべき」との強い意思を持って登場します。

史実でも密豊君が李麟佐に担ぎ出されたことは事実です。

しかし、実際に密豊君が王座を本当に欲しがっていたかは分かっていません。

また、ドラマのように極悪非道な人物だった記録もありません。

 

 

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