ドラマ「ヘチ王座への道」の密豊君(みるぷんぐん)は、「自分が王位継承者である」と考えています。
その理由は、密豊君(みるぷんぐん)の家系図を見ると明らかです。この記事では、彼の家系、家族、そして、波乱の最後まで分かりやすく解説します。
密豊君(みるぷんぐん)の家系図

本図は当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図です
<密豊君の家系図>
密豊君(みるぷんぐん)は昭顕世子(第16代王・仁相の息子)の血を引く子孫でした。
密豊君は王位継承権のある王族だったのです。
トンイ(淑嬪崔氏)やクム(第21代王・英祖)の遠い親戚にあたります。
【PR】スポンサーリンク密豊君がなぜ、王位継承から外れたのか?
密豊君の曽祖父・昭顕世子が亡くなったときに、慣例に反して、仁祖が昭顕世子の息子ではなく、弟の鳳林大君を世子にしたからです。
では、なぜ、仁祖は鳳林大君を選んだのか?
1645年、昭顕世子は8年間の人質を解かれて帰国しましたが、2ヶ月後に急死します。
この時、仁祖は清に傾倒した長男・昭顕世子の息子ではなく、自分と同様に清に恨みを持つ次男・鳳林大君を世子に選んだのです。
詳しくは>>昭顕世子(ソヒョンセジャ)の家系図【謎の不可解な死因】
家系図を見れば明らかなように、仁祖のこの選択により、王位継承の家系は嫡系から傍系に移ってしまいました。
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密豊君は昭顕世子の孫である臨昌君(イムチャングン)と凝川郡夫人朴氏との間に長男として生まれました。
密豊君はどんな人物だったのか?
ドラマ「ヘチ」では、密豊君は「自分は王位継承者である」と強く主張する野心家として描かれています。
しかし、史実において密豊君本人が本当に王位を狙っていたかどうかは分かりません。
生年:1698年3月29日
没年:1729年4月26日
享年:32歳
本名:李担(イ・タン)
密豊君の祖父|昭顕世子の唯一生き残った息子
昭顕世子が亡くなり、妻が処刑されると、彼の3人の息子は流刑となりました。
長男と次男は流刑地で亡くなり、唯一生き残ったのが、密豊君の祖父・慶安君(石堅)でした。
1655年、12歳の時にようやく解放された慶安君(石堅)は、結婚して密豊君の父・臨昌君を生んでいます。
祖父は22歳の若さで亡くなりますが、家は貧しく、葬儀も挙げられなかっといいます。
祖父・石堅についてはこちら>>推奴(チュノ)の可愛い石堅は実在した密豊君の祖父
密豊君の家族構成
密豊君には正室と側室がいましたが、子どもが生まれたのは側室の郡夫人 林川趙氏(イムチョン チョシ)との間だけでした。
密豊君が李麟佐の乱で処刑されると、一族は処刑、または流刑となりました。
妻と子供たち
関係 | 名前 | 子女 | 備考 | ||
正室 | 清風金氏 | なし | |||
側室 | 林川趙氏 | 5男4女 | 長男 | 觀錫 | |
次男 | 晉錫 | 延齢君の養子 | |||
三男 | 恒錫 | 密原君の養子 | |||
四男 | 謙錫 | 賜死 | |||
五男 | 益錫 | 賜死 |
注)次男・晉錫の養子は李麟佐の乱後に、破断になりました。
密豊君の兄弟
密豊君は6人兄弟の長男でした。
続柄 | 名前 | 読み方 | 本名 |
長男 | 密豊君 | ミルプングン | 李担(イ・タン) |
次男 | 密南君 | ミルナムグン | 李堪 |
三男 | 密原君 | ミルウォングン | 李墉 |
四男 | 密川君 | ミルチョングン | 李墰 |
五男 | 密平君 | ミルピョングン | 李㙫 |
六男 | 密雲君 | ミルウングン | 李壎 |
密豊君の最後はなぜ、賜死だったのか?(李麟佐の乱)
1728年3月15日に李麟佐(イ・インジャ)が密豊君(みるぷんぐん)を担ぎ出して反乱を起こしました。
この反乱は、李麟佐の乱または、戊申(ムシン)の乱とも呼ばれています。
李麟佐の乱は2週間程度で鎮圧され、主犯の李麟佐は捕まり処刑されました。
英祖実録(1729年3月28日)によると、英祖は王族である密豊君の処刑に対しては慎重であり、極刑を要求する臣下たちに抵抗しています。
しかし、最後は折れて、賜死(シシ)で自害すること命じました。自害は王族に対するせめてもの温情だったのです。
密豊君のお墓の場所と様子
密豊君は祖父の慶安君、父親の臨昌君と共に京畿道高陽市徳陽区大慈洞に埋葬されています。
小高い丘の上に見えるのが祖父・慶安君のお墓、その手前に父・臨昌君と密豊君のお墓があります。
<祖父、父と埋葬された密豊君のお墓>
まとめ
密豊君(みるぷんぐん)は第16代国王・仁祖の長男・昭顕世子の血を引く子孫でした。
だから、ドラマ「ヘチ王座への道」では密豊君は「自分は王位継承者である」と主張したのです。
史実で、密豊君が李麟佐に担ぎ出されたことは事実ですが、実際に密豊君が王座を本当に欲しがっていたかは分かっていません。
また、ドラマのように極悪非道な人物だった記録もありません。