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申叔舟(シン・スクチュ)の家系図【実在した世祖の忠臣】

世祖のもとで大出世した申叔舟ですが、一方で裏切り者とも呼ばれています。

申叔舟とはどんな人物だったのか。

申叔舟の家系図から詳しく調べてみました。

申叔舟の家系図

申叔舟(シン・スクチュ)は申成用を始祖とする高霊申氏一族の出身です。

申成用は高麗政府で軍器監の検校(監督官)を務めました。

 

申叔舟の家門は高麗末期から官僚を排出した家門でしたが、名門と言われるほどではありませんでした。

しかし、申叔舟が朝廷で出世することにより、一族は名家と呼ばれるようになっていきました。

<申叔舟の家系図>

芸文館大堤学を務めた尹淮(ユン・フェ)は申叔舟の義理の祖父にあたります。

 

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申叔舟はどんな人物だったのか?

申叔舟(シン・スクチュ)は幼い頃から神童と呼ばれるほど学問に優れていました。

特に、外国語の習得能力は優れ、日本語、中国語が堪能でした。

申叔舟の言語に対する能力は、世宗の一大事業であるハングルの創製に重要な役割を果たしています。

 

申叔舟のプロフィール

申叔舟(シン・スクチュ)は政治家、外交官だけでなく、女真討伐で活躍するなど武術にも優れた人物でした。

<プロフィール>
申叔舟(シン・スクチュ)
生年:1417年6月20日
没年:1475年6月21日
享年:59歳
字:泛翁
号:希賢堂/保閑斎
諡号:文忠
氏族:高霊申氏
父:申檣(シン・ジャン)
母:羅州鄭氏(鄭有の娘)

 

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申叔舟の家族

申叔舟(シン・スクチュ)は申檣(シン・ジャン)と鄭氏(鄭有の娘)の間に三男として生まれました。

関係 名前 生年-没年 備考
申檣 1382-1433 集賢殿の副提学
羅州鄭氏 不詳 鄭有の娘
長男 申孟舟 不詳
次男 申仲舟 1412-1447
三男 申叔舟 1417-1475 本人
四男 申松舟 1419-1464
五男 申末舟 1429-1503
長女 申氏 不詳

 

父親の申檣

1421年、父親の申檣(シン・ジャン)は、世宗が再編した集賢殿の副提学(正三品)に任命されました。

集賢殿が再編された翌年のことです。

大提学が他の官職と兼務なので、副提学は集賢殿の実質的な責任者でした。

集賢殿は世宗のブレーンであり、父親がいかに学問に秀で出た人物であったか分かります。

 

また、父親の申檣は孟思誠(メン・サソン)、尹淮(ユン・フェ)とともに、朝鮮八道の地誌である「新撰八道地理志」の編纂に関わりました。

「太祖実録」、「定宗実録」、「太宗実録」などの編纂にも参加しています。

 

また、申檣は世子(文宗)が幼い頃に小学を教えた師匠でもありました。

 

申叔舟の妻子

申叔舟(シン・スクチュ)には側室の子供も含めて、9男2女の子供がいました。

長男の申澍は韓明澮の長女を妻として迎えています。

また、側室との間にできた娘は世祖の後宮(淑媛申氏)となっています。

関係 名前 生年-没年 備考
正室 茂長尹氏 不詳-1456 尹景淵の娘
 長男 申澍 1434-1456 妻:韓明澮の長女
 次男 申溥 不詳-1467 妻:丁湖の娘
 3男 申澯 不詳
 4男 申瀞 1442-1482
 5男 申浚 1444-不詳
 6男 申溥 1446-不詳
 7男 申泂 1449-不詳
 8男 申泌 1454-不詳
 長女 高靈申氏 1455-不詳 申命壽の妻
側室 裵氏 不詳
 9男 申潔 不詳
 次女 淑媛申氏 不詳 世祖の後宮

 

申叔舟の生涯

申叔舟(シン・スクチュ)は世宗(セジョン)以下、文宗、端宗、世祖、睿宗、成宗の6人の王に仕えています。

優れた学識と文才や言語能力で政治や外交で数々の成果をあげ、申叔舟は官僚のトップである領議政まで上り詰めました。

しかし、一方では首陽大君の王位略奪に加担したことで、裏切り者との非難を浴びている面もあります。

 

集賢殿でハングル創製に参加

1439年、文科に合格して官吏となった申叔舟は典農寺直長(従七品)に就いています。

申叔舟は日本語、中国語など他国の言語に傑出していました。

 

そのため、集賢殿に採用され、集賢殿の学士たちとともにハングルの創製に関わっています。

申叔舟が中心的役割を果たしたことは間違いないでしょう。

 

1446年ハングルが公布されると、1447年には集賢殿応教(従四品)、1452年には集賢殿の直提学になっています。

なを、ハングルの創製は世宗一人の作業によって行われたとのする説もありますが、文字創製の一大事業は集賢殿の学士たちの協力があったと見る方が自然のように思います。

 

癸酉靖難で首陽大君に加担

1453年10月、首陽大君(世祖)による癸酉靖難が起こりました。

癸酉靖難は首陽大君が、皇甫仁、金宗瑞らの顧命大臣を殺害して政権を奪取したクーデターです。

このとき、申叔舟は首陽大君を支持、靖難功臣二等に遇せられ、翌年の1454年2月には承政院の都承旨(正三品堂上)に昇進しています。

 

首陽大君は、癸酉靖難に不満を持つ、王族や臣下を排除、1455年6月には、端宗は譲位させて第7代国王(世祖)として即位しました。

クーデターの計画は1452年に首陽大君が謝恩使として明に行く道中で計画され、同行した申叔舟、鄭麟趾、権擥もその時に傘下に入ったと言われています。

 

世祖のもとで大出世

申叔舟(シン・スクチュ)は首陽大君が王位に就くと、1455年10月には、芸文館大提学(正二品)に任命されています。

世祖は申叔舟を、唐の太宗に仕えた名臣の魏徴にたとえ、重用していきます。

 

1456年2月、兵曹判書(正二品)、10月に右賛成(従一品)に昇進しました。

そして、1458年12月には右議政(正一品)、1459年11月には左議政(正一品)、1462年5月には領議政(正一品)と、遂に、朝鮮王朝の最高官職である領議政となりました。

しかし、大出世をする一方で、端宗を支持して処刑された集賢殿の同僚たちから強く避難された「裏切り者」の汚名が、常について回りました。

 

申叔舟の最後

1468年、世祖が亡くなると、若い睿宗が第8代王として即位しました。

申叔舟(シン・スクチュ)は睿宗に仕えますが、1469年、睿宗が病気で亡くなると成宗に仕えています。

世宗から6代の王に仕えた申叔舟ですが、1475年、59歳で亡くなりました。

 

まとめ

申叔舟(シン・スクチュ)は神童と言われ、幼い頃から言語能力に優れていたといいます。

その能力が、世宗の一大業績であるハングルの創製に役立ったことは間違いありません。

日本語が達者であった申叔舟は、1443年5月、通信使の書状官として日本を訪れています。

 

申叔舟は政治力、外交力を世祖に認められて出世する一方で、常に「裏切り者」の汚名を背負うことになりました。

韓国では、傷みやすい緑豆モヤシは申叔舟にちなんで「スクチュナムル」と呼ばれるそうです。

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