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武烈王の家系図【善徳女王のキムチュンチュは実在した王】

金春秋(キムチュンチュ)は、後に武烈王として王になる実在した人物です。

武烈王について家系図から詳しくご紹介します。

 

武烈王の家系図

金春秋(キムチュンチュ)は真平王(第26代王)の娘・天明公主と真智王(第25代王)の息子・金龍樹の間に生まれました。

両親とも王族です。

父親の金龍樹(キムヨンス)が亡くなると、弟の金龍春(キムヨンチュン)が養父になっています。

<武烈王の家系図>

史実では天明公主と善徳女王は姉妹であり、よって、善徳女王は金春秋の伯母さんにあたります。

金春秋の正室の文明王后は金庾信(キム・ユシン)の妹です。

 

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武烈王はどんな王だったのか?

武烈王は唐との同盟を成立させるなど、外交力に長けた人物でした。

三国統一の道半ばで亡くなりますが、新羅の窮地を救い、朝鮮統一の基礎を築いた王であることは間違いありません。

 

武烈王プロフィール

武烈王(テジョンムヨルワン)
新羅29代国王
生年:603年
没年:661年
享年:59年
在位期間:654年-661年
都城:金城
姓・諱:金春秋(キムチュンチュ)
養父:金龍春(キムヨンチュン)
実父:金龍樹(キムヨンス)
母:天明公主
王妃:文明王后(金庾信の妹)

 

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武烈王の家族

武烈王は4人の夫人との間に11男3女の子供がいました。

宝羅宮主との間に生まれた最初の息子は幼くして亡くなり、二人目の妻・文明王后との間に生まれた息子の金法敏(ポプミン)が王位を継承しました。

また、弟の金仁問(インムン)は、文武に秀でており、王族将軍として兄の文武王を支えました。

関係 名前 備考
養父 金龍春
実父 金龍樹 金龍春の兄
天明公主 善徳女王の姉妹
夫人 宝羅宮主 最初の妻、長男を出産後亡くなる。ミシルの息子宝宗の娘
 長女 古陀炤公主 百済に殺害される
 長男 金文主 早世
王妃 文明王后 金庾信の次妹・文姫
 次男 金法敏 第30代国王・文武王
 三男 金仁問 将軍
 四男 金文王
 六男 金老且
 七男 金智鏡
 八男 金愷元
 三女 智炤公主 金庾信の妻、5男4女
後宮 金宝姫 文明王后の姉、金庾信の長妹
 五男 金皆知文
 九男 金車得
 次女 瑶石公主 僧侶の元暁の妻、子供は大儒学者、薛聡(ソルチョン)
 十男 金馬得
後宮 不詳
 十一男 金仁泰

三女の智炤公主は金庾信の継室として嫁がせ、金庾信との絆を深くしています。

 

最初の妻・宝羅宮主

「花郎世紀」によると、金春秋の最初の妻は美室の孫娘にあたる宝羅(ポラ)でした。

宝羅は金春秋が即位する前に結婚して、1男1女をもうけていますが、二人目の男の子の出産後に亡くなっています。

<宝羅の家系図>

最初に生んだ女の子の古陀炤(コタソ)は大耶城主の品釈(プムソク)に嫁ぎました。

しかし、642年8月、百済は大耶城を攻撃、城主は降伏しましたが、夫の品釈とともに古陀炤は殺害されてしまいました。

寵愛していた娘が殺され、金春秋の百済に対する復讐心が頂点に達したことは言うまでもありません。

 

武烈王の生涯

 

金春秋の誕生と結婚

603年、金春秋(後の武烈王)は金龍樹と天明公主(真平王の娘)に間に生まれました。

後に、金龍樹の弟・金龍春の養子になっています。

なお、「三国史記」では金龍樹と金龍春は同一人物としています。

 

最初の妻・宝羅との間に1男1女をもうけますが、長男出産後に宝羅は亡くなっています。

次に妻に迎えたのが金庾信の妹(後の文明王后)でした。

 

632年、新羅に初の女王、善徳女王が誕生します。

善徳女王は金春秋の母である天明公主の姉妹、つまり、金春秋の叔母さんにあたります。(天明公主が善徳女王の姉か妹かについては諸説存在します。)

 

百済の侵略と娘の死

641年、百済で義慈王(ウイジャワン)が即位すると、義慈王は新羅への侵略を開始しました。

642年に義慈王は大軍を動員して、新羅の国境近くの40余城を攻略しました。

 

更に、8月には、百済は伽耶地方に侵略して、大耶城を陥落させます。

この時、降伏した城主とその妻であった金春秋の娘・古陁炤(コタソ)は殺害されてしまいます。

この訃報を聞いた金春秋の悲しみは言葉で言い表せないほどであったと言います。

 

金春秋が高句麗に援軍要請

新羅はまさに、国家存亡の危機に瀕していました。

642年、金春秋は窮地に陥った新羅の危機打開と娘の復讐のため、自ら単身、高句麗へ援軍要請に行きました。

しかし、援軍要請は拒否、逆に新羅が奪った漢江上流流域の領土の返還を要求されました。

金春秋がこれを拒否すると交渉は決裂、金春秋は監禁されてしまいます。

 

これを聞いた金庾信は、急遽1万の兵を挙げて金春秋の救出に向かいました。

すると、恐れをなした高句麗は慌てて金春秋を釈放したといいます。

 

高句麗、百済との戦い

643年9月、新羅は唐に使者を派遣して、高句麗・百済の連合軍を討つ救援軍の派遣を求めました。

唐の皇帝・太宗は援軍を送る条件として3つの要求を提示しました。

その一つが

「新羅が女帝を立てたことで隣国に侮られている。新羅が安定するまで太宗の親族を派遣するので、その者を王にしてはどうか。」と言う提案でした。
<三国史記5 新羅本紀 善德王十二年九月条より>

新羅はこの屈辱的な条件を拒否、単独で戦うことを決意します。

そして、百済とは644年から649年にかけて激しい戦争を繰り返しました。

 

金春秋が使節として倭国を訪問

日本書紀によると、647年に金春秋は使節として倭国を訪問したことが記録されています。

金春秋は訪問先で人質として留まったとありますが、現代の人が想像する人質とはかなりニュアンスが違うと考えられます。

この記録は韓国の史料にはなく、韓国では信憑性の低い内容とされています。

 

また、この2年前の645年、倭の朝廷を牛耳っていた蘇我入鹿を中大兄皇子が殺害、蘇我一族を滅亡させています。

乙巳の変(いっしのへん)です。

 

この政変をキッカケに政治改革の大化の改新がはじまりました。

この事件は、朝鮮からの使者を迎える儀式の中で勃発、ドラマ「大王の夢」では、金春秋が使節として儀式に出席していましたが、こちらは完全なフィクションです。

 

毗曇(ピダム)の乱が勃発

647年、上大等に就任した毗曇(ピダム)が女主不能善理を唱えて反乱を起こしました。

女主不能善理とは「女性君主は国を治めることができない」という説です。

毗曇の乱は金庾信により、10日余りで鎮圧され、毗曇の一族は皆殺しにされています。

 

647年12月8日、毗曇の乱の最中に善徳女王が亡くなりました。

善徳女王の死因に関しては>>善徳女王の死因とは?【謎の多い女王の死を徹底調査】をご覧ください。

 

善徳女王が亡くなり、真徳女王が即位しました。

しかし、このとき既に、金春秋は実質的に新羅の最高権力者になっていました。

 

唐との巧みな交渉で新羅の危機を救う

648年、百済の侵略に苦悩する真徳女王が金春秋と息子の金文王を唐に派遣しました。

派遣目的は百済に対抗する軍隊の派遣を要請するためです。

 

唐では太宗と謁見、高待遇で迎えられました。

このとき、金春秋は高句麗との交渉失敗の経験を生かし、巧みな交渉術を展開しました。

 

まずは、太宗が完成した「五経正義」に関心があることを示しました。

太宗の心が動くと百済の侵略を訴えて唐の援軍を要請したのです。

交渉は成功、新羅と唐の軍事同盟が成立しました。

 

更に、新羅の礼服や暦を中国の制度に改めること、また、自分の子供を太宗のそばに置いてほしいとお願いしました。

金春秋の帰国時に開かれた豪華な送別の宴が、太宗の心をシッカリと掴んだことを表していました。

 

唐との交渉は金春秋の巧みな外交手腕が発揮された交渉でした。

金春秋にとって唐との同盟は新羅が国家滅亡の危機から脱出する必須の条件でした。

金春秋の戦略は、まずは、唐の協力を得て百済を攻略、次にそこを拠点に南方から高句麗を制圧する遠交近攻策だったのです。

<豆知識>遠交近攻策とは
遠くの相手と手を結んで、近くの国を両方から攻めて攻略する政策のこと。中国の兵法書「兵法三十六計」に記載されている戦術。

金春秋は唐から海上で帰国する途中で、高句麗の兵と遭遇しました。

このとき、従者の温君解が金春秋に変装して身代わりとなり、金春秋は小舟で脱出しています。

帰国後、このことを聞いた真徳女王はひどく心を痛め、温君解に大阿飡の官位を追贈して、その子孫を手厚くもてなしたといいます。

 

金春秋が武烈王に即位

654年、真徳女王が亡くなり、金春秋が武烈王に即位しました。

和白会議は伊飡の閼川を推薦しましたが、閼川は老いていることを理由に固辞、逆に金春秋を推薦しています。

 

金春秋は三度断りましたが、遂に王に就任することを決意しました。

第29代・武烈王の誕生です。

 

王位を執拗に断ったのは祖父の真智王を廃位させた和白会議に対して、家柄の復権と自分の王位継承の正当性を認めさせるためだったと考えられます。

王に即位した金春秋はすぐに、亡き父を文興大王、母を文貞太后に追尊しています。

王権の伝統性を確かなものにする行動でした。

 

新族支配による王権の強化

王としての地位を確立した武烈王が、次に行ったのは王権の強化でした。

まずは、即位した翌年の655年に長男の法敏を太子に冊立、自分の後継者が長男法敏であることを明示しました。

更に、四男の文王に伊飡の高い官職を与えています。

 

656年、武烈王は唐から帰国した次男の金仁問を軍主に任命しました。

658年には同じく唐から帰国した文王を執事部の中侍という官職に任命しています。

こうして、直系の親族を重要なポジションに就けることで、武烈王は強力な支配体制を構築していきました。

 

また、本来であれば貴族勢力の代表的な官職である上大等に最側近の金庾信を任命しました。

これは、上大等を中心とした貴族連合体制の弱体化を狙ったものでした。

こうして、武烈王は親族や側近を政治の重要なポジションに配置して王権の強化を推し進めていきました。

国の内部を固めた武烈王は遂に、長年の敵・百済討伐に乗り出します。

 

唐が百済討伐に動き出す

655年、百済は高句麗との連合で新羅の33の城を掠奪、連戦連勝を続けます。

このころ、連戦連勝に驕慢になった義慈王は政務を放棄、酒色に走ったといいます。

 

新羅の連敗に危機感を抱いた武烈王は唐に使者を派遣して救援を求めました。

これに対して、3月、唐は營州都督の名振を派遣して、左右衛中郞將の蘇定方とともに高句麗を攻撃しています。

 

659年4月、百済が再び、頻繁に国境を侵略するようになりました。

武烈王は再び、唐に出兵を依頼しますが、なかなか唐から出兵の返事がきませんでした。

実は、唐は内密に百済討伐を決定、出兵の準備を進めていたといいます。

660年3月、遂に唐が動きます。

 

唐の高宗が水陸13万の軍を率いて百済討伐することを命じました。

このとき、左武衛大將軍蘇定方を神丘道行軍大摠管に、唐にいた三男の金仁問を副大摠管に任命しています。

唐軍の1900隻に及ぶ大船団は後尾が見えないほど長蛇の大戦隊でした。

唐は新羅に出兵を指示、新羅も5万の兵で百済を攻め込みました。

 

黄山伐(ファンサンボル)の戦い

唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼした経過は「三国史記」に詳しく書かれています。

660年5月26日、武烈王が金庾信、眞珠、天存と兵を率いて王都を出発しました。

 

7月9日、金庾信は軍を黄山の原に進めます。

このとき、百済の将軍・階伯が先にこの地に来ており、三営を設営して待ち構えていました。

 

金庾信は階伯の反撃に大苦戦します。

兵士の気力が尽き果てようとしたとき、将軍・欽純の子の盤屈が単独で敵陣に突っ込み戦死します。

 

更に左将軍・品日の子の官状が敵陣に突っ込みますが、階伯は16歳と若かった官状に感嘆して殺しませんでした。

送り返された悔しさに官状は水を一口飲むと、再び、敵陣に挑んで行きました。

今度は階伯は官状の首を切り、馬の鞍に繋いで送り返しています。

 

この二人の決死の突入を見た新羅軍は奮い立ち、百済軍は大敗北を喫しました。

黄山伐(ファンサンボル)の戦いで階伯が戦死、佐平の忠常、常永ら20余人が捕虜になりました。

<豆知識>黄山伐(ファンサンボル)の戦い
黄山伐の戦いは、金庾信(キム・ユシン)率いる5万人の新羅軍に対して、階伯(ケベク)率い5000人の百済軍が激突した戦い。百済軍は戦闘に4度も勝利して健闘しますが、5度目の戦闘で階伯は戦死してしまします。敗れた百済は間もなく王都を攻め落とされ、滅亡しています。

 

唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼす

黄山伐の戦いに勝利した日に、蘇定方と金仁問は伎伐浦に到着しています。

660年7月12日、唐と新羅の連合軍が義慈王の泗沘城を包囲しました。

恐れ慄いた義慈王は13日の夜に臣下を伴い泗沘城を脱走、熊津城に逃げ込みます。

これを知った義慈王の息子・隆は大佐平の千福らとともに泗沘城を出て降伏しました。

 

このときの状況が、「三国史記」に詳しく記載されています。

法敏跪隆於馬前,唾面罵曰:「向者,汝父枉殺我妹,埋之獄中,使我二十年間,痛心疾首,今日汝命在吾手中!」隆伏地無言。<三国史記5 新羅本紀 武烈王七年七月十三日より>

<訳>法敏は隆を馬の前にひざまずかせ、顔面にツバを吐きつけ罵った。「お前の父は私の妹を無実の罪で殺し、その遺体を獄中に埋めた。このことで、私は20年間心を痛め、恨みをいだき続けてきた。今日、お前の命は我が手中にある」隆は地に伏せ返す言葉がなかった。

ここで言う妹とは、異母姉の古陀炤(コソタ)のことです。

「妹」は姉の記載ミスと思われなす。

 

そして、7月18日、百済の義慈王が遂に、熊津城から出て降伏します。

7月29日、武烈王は所夫里城に入城、弟監の天福を唐に派遣して、(勝利を報じる)露布を持って行かせました。

勝利の報告をした武烈王は、8月2日に酒宴を開き、百済の臣下の前で義慈王に酒を注がせています。

 

9月3日、蘇定方は義慈王と王族・重臣93人、百済人1万2千人を唐に連行していきました。

この年の11月1日、義慈王は唐で病死しています。

 

娘の恨みを晴らす

酒宴を開いた日、大耶城を落城させた裏切り者の毛尺と黔日を処刑しています。

毛尺は新羅人でしたが、百済に寝返り、大耶城の黔日と共謀して大耶城を陥落に導いた罪人でした。

毛尺は斬首され、黔日は四支解の刑で処刑されました。

 

黔日の罪状は次のとおりでした。

第一の罪状、毛尺と謀り、大耶城に百済の兵を引き入れ、倉庫を焼き、この城の食料をなくし、敗北に追い込んだ

第二の罪状、品釋夫妻を殺害した

第三の罪状、百済を本国に侵攻させた

642年に娘の古陁炤(コタソ)が殺害されてから18年、遂に武烈王は娘の恨みを晴らすことができました。

 

百済の残党との戦い

9月23日、百済の残党が泗沘城に侵入したが、唐と新羅の兵が撃退しています。

10月9日には武烈王が太子とともに礼城を攻撃、18日に礼城を陥落させ、この知らせを聞いた周辺の20余城を降伏させています。

 

更に、10月30日には泗沘の南嶺の軍柵を攻撃し、1500人を殺害しています。

11月5日、武烈王は雞灘を渡り、寺岑城を攻撃、700人を殺害して帰国します。

 

百済より帰った武烈王は11月22日、論功行賞を与えました。

この論功行賞で、罽衿の卒の宣服を級飡に、軍師の豆迭を高干とし、戦死した儒史知、未知活、寶弘伊、屑儒の4人に応分の官職を与えています。

 

高句麗軍に攻め込まれる

661年5月9日、高句麗の将軍・惱音信は靺鞨の将軍・生偕と連合して述川城を攻撃しました。

しかし、述川城を容易に陥落させることはできませんでした。

 

そこで、高句麗軍は手薄の北漢山城を標的に変えました。

その時、城内には男女2800人しかいませんでしたが、城主の冬陁川は弱小者を激励して、高句麗の大軍と戦いました。

 

20余日も経過すると、城内では食料も尽き、徐々に気力もなくなっていきました。

すると、彼らの願いが天に届いたのか、突然、高句麗の陣営に大きな星が落ちます。

雷雨が激しく降り、高句麗軍はこれらの出来事に驚いて包囲を解除、退却したと伝えられています。

この話を聞いた武烈王は冬陁川を称賛し、冬陁川は大奈麻に大抜擢されました。

 

武烈王の逝去と朝鮮半島の統一

661年6月、高句麗侵攻に参加していた武烈王が陣中で病死してしまいます。

享年59歳でした。

このとき、大官寺の井戸の水が血に変わり、金馬郡では血が四方八方に広がったといいます。

 

武烈王が亡くなると、息子が第30代王・文武王として即位しました。

668年、新羅と唐の連合軍が高句麗を滅ぼし、統一新羅が誕生します。

 

そして、676年、新羅を配下に置こうとする唐を撃退して朝鮮半島の統一を果たしました。

こうして、563年に始まった高句麗、新羅、百済の三国時代は113年の年月を経て、新羅の朝鮮半島統一で終わりを迎えます。

 

まとめ

武烈王は武将の金庾信と強い親族関係を結んだ国王でした。

武烈王は危機的状況に瀕した新羅を巧みな外交で立て直します。

 

そして、金庾信とともに百済を倒し、三国統一の基礎を築きました。

高句麗侵攻の道半ばで亡くなりましたが、武烈王の意志は子供へと受け継がれました。

676年、唐を追い出した新羅は、遂に新羅が朝鮮半島を統一したのです。

 

ドラマ「善徳女王」では影の役に回っていますが、歴史上では善徳女王以上に新羅の拡大に貢献した人物でした。

 

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