イ・サンの実話を詳しくご紹介します。
できるだけ史実とドラマの違いに留意しながら説明していきます。
イ・サンの実話
ドラマ「イ・サン」は第22代国王・正祖の実話をベースに創作された物語です。
名君イ・サンが生まれる
イ・サンは1752年10月28日に荘献世子(チャンホンセジャ)と恵慶宮洪氏(ヘキョングンホンシ)の次男として生まれました。
父親の荘献世子は第21代国王・英祖の息子です。
イ・サンには兄の懿昭世子(イソセジャ)がいましたが、イ・サンが生まれた年の4月17日に亡くなっています。
子供の頃に書いた文字を見ると、几帳面で聡明な子供であったことが感じられます。
<イ・サンが子供の頃に書いた文字>
英祖が新しい王妃を迎える
1757年、英祖の正室であった貞聖王后が65歳で亡くなり、英祖は1759年に揀択により金漢耈の娘である貞純王后を王妃に迎えました。
このとき、貞純王后はまだ15歳でした。
英祖は66歳、息子の荘献世子25歳、恵慶宮25歳、イ・サン8歳のときです。
英祖との年の差が51歳あるのも驚きですが、イ・サンと7歳しか違わない義祖母というのも驚きです。
朝鮮王朝最大の悲劇「米びつ事件」
1762年、遂に朝鮮王朝最大の悲劇と言われる「米びつ事件」が起こります。
英祖は息子の荘献世子を米びつに閉じ込めるという悲劇的な選択をしました。
これは、精神状態の悪化や頻繁な暴力事件が原因とされていますが、背景には英祖の厳格な教育があったと考えられます。
イ・サンと孝懿王后の結婚
1762年、イ・サンは英祖の意向で選ばれた孝懿王后(ヒョウィワンフ)と結婚しています。
イ・サン11歳、孝懿王后9歳のときでした。
孝懿王后は、知性が高く、孝心があり、徳妃と呼ばれましたが、残念ながら生涯、子供に恵まれることはありませんでした。
孝懿王后の生涯については>>孝懿王后の家系図【徳妃の温厚で優しい性格の裏の辛い生涯】をご覧ください。
王位継承者としての教育が始まる
イ・サンは1759年、8歳のときに王世孫に冊立され、11歳から本格的な王位継承者としての教育が始まりました。
講義は朝、昼、晩に行われ、時折、大臣による特別講義も実施されました。
世子としての期待の大きさが分かります。
また、「罪人の息子は王になれない」と言う老論派の主張に対して、英祖はイ・サンを長男・孝章世子の養子としました。
イ・サンを何としても王位継承者として育てたかった英祖の切実な気持ちが感じられます。
宜嬪成氏との出会いと別れ
イ・サンと宜嬪成氏の最初の出会いは諸説ありますが、一説では1766年、イ・サン15歳、宜嬪成氏14歳の頃と言われています。
1782年、宜嬪成氏は女官身分で文孝世子を出産し、正式に側室になりました。
しかし、4年後の5月に世子に冊封された文孝世子が亡くなると、9月には出産を控えた宜嬪成氏自身が亡くなってしまいました。
二人の愛すべき人を失ったイ・サンの悲しみは計り知れなかったと推測されます。
宜嬪成氏について詳しくは>>ドギム(ドクイム)のモデルは実在したイ・サンの側室・宜嬪成氏をご覧ください
第21代国王・正祖の誕生
1776年に英祖が亡くなり、遂にイ・サンが第21代国王として即位します。
イ・サンが即位したときに、父親への敬意と復讐の意図を明確に示している言葉が実録に記録されています。
召見大臣于殯殿門外。 下綸音曰: “嗚呼! 寡人思悼世子之子也。ー(以下略)ー
<引用元:正祖実録1776年3月10日4番目から抜粋>
遂に、イ・サンが第21代国王として即位しました。ここまでの内容をまとめておきます。
・イ・サンは子供の頃から聡明で、英祖の自慢の種でした。
・英祖が新たに迎えた王妃は、イ・サンより7つ年上の幼き女性でした。
・イ・サンの父は「米びつ事件」で悲劇的な最後を遂げています。
・孝懿王后と結婚しましたが、生涯、子供に恵まれませんでした。
・王世孫となったイ・サンに本格的な王位継承者の教育が始まりました。
・イ・サンは宜嬪成氏と文孝世子の二人の愛すべき人を失いました。
・即位したイ・サンは父の復讐を決意しました。
徹底的な粛清による父への復讐
イ・サンは即位すると、まずは、父の悪口を影で告げていた英祖の側室・淑儀文氏を宮廷から追放して処刑しています。
次に、父を陥れた老論派を粛清します。
既に死亡している老論派の中心人物・金尙魯の官職を剥奪、彼の息子と兄弟たちを流刑としました。
更に、母親の洪氏一族の多くの人を流刑とし、一族を没落させています。
粛清の対象は叔母にも及びました。
和緩翁主は翁主の称号を剥奪、平民に降格の上、江華島に流刑とし、その息子・鄭厚謙を流刑の上、処刑しています。
本当にあったイ・サンの暗殺計画
1777年に二度、イ・サンの暗殺計画が実行されました。
1回目の暗殺計画は、1777年7月28日にイ・サンの居所・慶熙宮に刺客が侵入しています。
更に、8月11日に二度目の暗殺計画が実行されました。
暗殺計画は、没落された洪氏一族の洪啓禧の孫であった洪相範(ホン・サンボム)らが計画した謀反でした。
しかし、いずれの暗殺計画も失敗に終わっています。
洪国栄の独裁と破滅
ゴロツキだった洪国栄は、1772年に一発奮起して科拳に合格、3年後に世子の教育部門に配属され、イ・サンと運命的な出会いをします。
洪国栄はイ・サンが王位に就くために死力を尽くし、側近として次第に朝廷で大きな権力を持ち始めました。
洪国栄は独裁者の如く振る舞い、自分の妹・元嬪洪氏を強引にイ・サンの側室にするなど私利私欲に走っていきます。
しかし、洪国栄の暴走は遂に臣下の弾劾を受け、1779年、イ・サンはやむなく洪国栄を流刑します。
洪国栄は流刑の2年後、あっけなく流刑地で亡くなってしまいました。
和嬪尹氏を側室に迎える
イ・サンが和嬪尹氏を側室として迎えた背景には、子孫を増やしたいという意図があったと思われます。
翌年、出産準備の産室庁が設置されたことが正祖実録に記録されていますが、和嬪尹氏が出産した記録がありません。
「死産」もしくは、「想像妊娠」だった可能性が高いと考えます。
ドラマではソンヨン(宜嬪成氏)と和嬪尹氏が同じ日に出産していますが、これはもちろんドラマの創作です。
次期国王・純祖が生まれる
1787年、世継ぎがいないイ・サンに貞純大妃が綏嬪朴氏を側室に選びました。
綏嬪朴氏は3年後に次期国王・純祖となる李玜(イ・ゴン)を産んでいます。
純祖は幼くして即位しますが、生涯、政治を主導することができませんでした。
そして、政治は安東金氏一族が朝廷を支配する勢道政治へと進んでいくことになります。
詳しくは>>純祖の家系図【偉大な名君・正祖を継いだ悲劇の王】をご覧ください。
早すぎるイ・サンの死
1800年、イ・サンは背中には腫れ物ができ、体調不良に陥ります。
息子への王位継承を盤石なもにしたかったのでしょう。
イ・サンは体調を崩し始めた頃に金祖淳を都承旨に任命、金祖淳の娘を世子嬪に内定しました。
その後、イ・サンの病状は悪化、1800年8月18日に49歳で亡くなっています。
破壊されたイ・サンの夢
ドラマは「イ・サンの死」で終わっていますが、イ・サンの死後、世子の李玜が第23代国王・純祖としてが即位しました。
しかし、純祖はまだ11歳と幼く、貞純大妃が垂簾聴政を行いましたが、これが悲劇の始まりでした。
貞純大妃は老論僻派と手を組み、イ・サンの改革を次々に廃止、イ・サンが育てた人材を次々と粛清してしまいました。
イ・サンが作りあげようとした新しい国を貞純大妃は無惨にも次々と壊していったのです。
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イ・サンの4大業績
イ・サンは後に、聖君と呼ばれるように後世に残る大きな業績を残しています。
・奎章閣での人材育成
・辛亥通共による商業の自由化
・武芸図譜通志による武術の体系化
・水原華城の築城
奎章閣に集められた膨大な中国と朝鮮の蔵書は、現在、ソウル大学奎章閣に移されました。
その後、奎章閣の蔵書は着実に増加し、現在では約26万点余りに達した古文書などの蔵書はデジタル化され、国内外の研究者に提供されて多くの研究で多大な貢献をしています。
辛亥通共による商業の自由化は、イ・サンのトップクラスの業績です。
特定商人の専売権の廃止により、商業の自由化を推進したことは、その後の朝鮮王朝の貨幣による自由経済の発展に大きく寄与しました。
辛亥通共こそ、現在の貨幣自由経済の起点と考えられます。
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史実とドラマの違い
ドラマ「イ・サン」は、彼の波乱に満ちた人生や政治的挑戦が描かれるため、歴史好きには特に興味深い物語です。
史実を徹底的に調査して緻密に練られた脚本は物語に深みを与えています。
ここでは、史実とドラマで大きく違う点をご紹介します。
子供の頃の話は全てフィクション
イ・サンは子供の頃に将来の側室ソンヨンと護衛武士テスに出会います。
しかし、子供の頃の話は全てフィクションです。
想像妊娠は孝懿王后
ドラマでは洪国栄の妹の元嬪洪氏が想像妊娠をしていますが、史実では孝懿王后が想像妊娠をしています。
そもそも、元嬪洪氏がイ・サンの側室になったのは韓国の年齢で12歳、実質は11歳でした。
ドラマのような振る舞いをしたとは考え難いですね。
貞純王后のクーデターはなかった
ドラマでは、貞純王后が老論勢力の黒幕で、クーデターを起こしますが、これは史実ではありません。
特に、正祖と貞純王后の仲が悪かったという記録もありません。
実は、貞純王后は正祖が生きている間は、大人しく生活していたようです。
正祖も祖母にあたる貞純王后を丁重に扱っていました。
貞純王后が正祖の改革を全てぶち壊す、目に余る暴挙にでるのは正祖の死後のことです。
実在した登場人物
ドラマ「イ・サン」には実在した人物のモデルが多く登場しています。
役名 | 実在のモデル | 備考 |
イ・サン | 正祖 | 第22代国王 |
ソン・ソンヨン | 宜嬪成氏 | 正祖の側室 |
英祖 | 英祖 | 第21代国王 |
貞純王妃 | 貞純王妃 | 英祖の正室 |
惠慶宮ホン氏 | 惠慶宮洪氏 | 正祖の母 |
思悼世子 | 荘献世子 | 正祖の父 |
孝懿王后 | 孝懿王后 | 正祖の正室 |
元嬪洪氏 | 元嬪洪氏 | 正祖の側室、洪国栄の妹 |
和嬪尹氏 | 和嬪尹氏 | 正祖の側室 |
ファワン | 和緩翁主 | 英祖の娘 |
チョン・フギョム | 鄭厚謙 | 和緩翁主の養子 |
ホン・グギョン | 洪国栄 | 正祖の側近 |
チョン・ヤギョン | 丁若鏞 | 正祖の側近 |
キム・ギジュ | 金亀柱 | 貞純王妃の兄 |
ホン・ボンハン | 洪鳳漢 | 惠慶宮の父 |
ホン・イナン | 洪麟漢 | 洪鳳漢の弟 |
恩彦君 | 恩彦君 | 正祖の異母弟 |
恩全君 | 恩全君 | 正祖の異母弟 |
完豊君 | 完豊君 | 荘献世子の孫 |
純祖 | 純祖 | 第23代王、正祖の息子 |
まとめ
イ・サンは幼少時に悲劇的な体験をしながらも、それを乗り越え多くの業績をあげた名君でした。
彼の改革や業績は、奎章閣での歴史・文化の継承や商業の自由化など、後の朝鮮王朝だけでなく現代にも深い影響を与えています。
今日も、彼の功績は評価され続けており、イ・サンの名君ぶりは世宗に並び韓国史に燦然と輝くものです。