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ドギム(ドクイム)のモデルは実在したイ・サンの側室・宜嬪成氏

ドラマ「赤い袖先」でイ・セヨンが演じたドギム(ドクイム)は実在した正祖の側室でした。

その名は宜嬪成氏(ウィビンソンシ)

正祖が最も寵愛したドギムとはどんな女性だったのか分かりやすく解説します。

ドギム(ドクイム)のモデルは宜嬪成氏

ドギムのモデルは実在した正祖の側室・成氏(ソンシ)で、1783年2月に側室の最上位の嬪(正一品)に昇格しています。宜嬪成氏は正祖が最も愛した女性でした。

賜昭容成氏號曰宜嬪
<引用元:正祖実録1783年2月19日>

<訳>昭容成氏に、「宜嬪(ウビン)」という称号を与えた。

宜嬪成氏はドラマ「イ・サン」でソンヨンのモデルにもなった人物です。

朝鮮時代の学者・黃胤錫が書いた頤齋亂藁(イジェナンコ)によると、宜嬪成氏の本名はソン・ドギム(成徳任)でした。

<豆知識>ドギムとドクイム
成徳任(성덕임)は一音一音発音すると「ソン・ドクイム」と発音されますが、実際は連音化して「ソン・ドギム」と発音されます。日本では連音化した「ソン・ドギム」をそのままドラマの名前として使用しています。
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ドギム(ドクイム)はどんな女性だったのか?

ドギム(ドクイム)は読書好きで、字が大変上手な女性だったようです。

正祖の妹である淸衍公主(20歳)、淸璿公主(18歳)と一緒に小説「郭張兩門録」を筆写したという記録が残っています。

また、正祖の寵愛を受けながらも正室に遠慮して、側室になることを何回も拒んだと言われています。このことからも、権力欲がなく、しとやかな優しい女性であったと想像できます。

しかし、正祖の側室の中で唯一、揀択(カンテク)を経ないで女官から嬪(ピン)まで上り詰めた女性でした。それだけ、正祖の寵愛が大きかったのでしょう。

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ドギムはなぜ、女官になれたのか

ドギムは1753年7月8日、父・成胤祐(ソン・ユンウ)と母・扶安の長女として生まれました。幼くして母を亡くし、1756年、わずか4歳で母親と死別します。

その後、1762年、10歳のときに宮廷に入り、女官として仕えることになりました。1769年、ドギムが17歳の時には父親も亡くなり、両親を失います。

実は、ドギムの家系はもともと役人の家柄でしたが、粛清の影響を受け、一族は没落してしまいました。そのため、父・成胤祐は、正祖の母親の実家で使用人として働いていました。

このような背景から、ドギムが女官として宮中に入れたのは、父が仕えていた縁によるものと考えられます。

正祖との関係:寵愛されながらも慎み深く

1766年頃にドギムは正祖に出会い寵愛を受けたと言われています。しかし、別の説ではドギムと正祖の出会いは、1780年頃、ドギムが側室の和嬪尹氏(ファビンユンシ)に仕えていたときとも言われています。

ドギムは正祖が気に入ったものの、正室に遠慮して側室になることを拒否、そのため、1782年に女官の身分で李㬀(イ・スン)を出産しました。

以上の年代と出来事を考えると、ドギムと正祖の出会いは1766年の頃、ドギムが正祖を受け入れてのが、1780年の頃とも考えられます。

ドラマ「赤い袖先」でも、宮廷を追い出されたドギムが、再び宮廷に戻り、和嬪尹氏に仕えていたときに、正祖を受け入れて側室になるストーリーになっていました。

側室になってからの不幸な生涯

しかし、その後は不幸が続きます。

1784年、女の子を生みますが、わずか2ヶ月で失ってしまいました。更に、1786年5月11日に文孝世子が麻疹で亡くなり、9月14日にはドギムも出産を控えて急死してしまいます。

文孝世子の死因については>>イ・サンとソンヨンの子・文孝世子の急死に毒殺説?をご覧ください。

こうして、突然、34歳の人生を閉じてしまいました。

ドギム(ドクイム)の死因とは

ドギム(ドクイム)は3回目の出産を控えて亡くなりましたが、死因は不明でした。

二人の子供を幼くして亡くし、心を患っていたとも言われています。あまりにも病気の進行が早かったため、何か不審な点があるのでは?と疑われたようです。

ドギムの死因については>>イ・サンが愛したソンヨンの死因は?【病死か、毒殺か】で詳しく解説しています。

ドギムを失った正祖の落胆ぶり

ドギムを失った正祖(イ・サン)の落胆ぶりはひどかったといいます。正史の正祖実録にはその時の状況が詳しく残されています。

上企待方切, 不勝悼惜。 朝野莫不以國本爲憂。~(略)~上曰: “病情奇怪, 竟至於此。 從今國事尤靡托矣。”
<引用元:正祖実録1786年9月14日>

<訳>王は非常に期待していたので、心から嘆き悲しんだ。朝廷と民衆はそんな王のことを大変心配した。~(略)~王は言った。「病状が奇怪(常識では考えられないような急変)で、このような事態になってしまった。もう、国事(王子の出産)を依頼するをことはないだろう」

朝廷と民衆が心配するほどの落胆ぶりだったと記録されています。

また、もう、国事(王子の出産)を依頼するをことはないだろう、つまり、「今後、誰かを愛することはない」とまで言っています。

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ドギム(ドクイム)の可愛そうな子供たち

ドギム(ドクイム)には2人の子供がいましたが、どちらも小さい頃に亡くなっています。
長男の㬀(スン)は麻疹にかかり、たったの4歳で亡くなりました。長女は生まれて2ヶ月、病名すら記録に残っていません。

また、3人目の子供は、お腹にいた時に母子ともに亡くなっています。

長男:李㬀(イ・スン)/文孝世子
生年1782年9月7日
没年1786年5月11日
3歳8ヶ月で逝去
長女:翁主(名前不詳)
生年1784年3月20日
没年1784年5月12日
生まれて2ヶ月で逝去

ドギム(ドクイム)のお墓

ドギム(ドクイム)は息子の文孝世子とともに、孝昌園(ヒョチャンウォン)に埋葬されました。

しかし、その後、墓が移設されて、現在は西三陵(ソサムルン)の側室たちの共同墓地に埋葬されています。

死んでからも、子供から離されてしまうとは本当に悲しいですね。

ドギムを演じた女優・イ・セヨン

ドラマ「袖先赤いクットン」でドギムを演じた女優はイ・セヨンです。

今回は、日本でも人気のあるイ・サンに最も愛された側室・宜嬪成氏を演じるとあって日本公開前から注目されました。

イ・セヨンに関しては>>チャングムでクミョンの子役は今?【国民的な大女優イ・セヨン】で詳しくご解説しています。

子役からの長いキャリアで今や時代劇で視聴率が取れる女優として大活躍のイ・セヨンです。今後の活躍が益々、楽しみです。

まとめ

ドラマ「赤い袖先」のヒロイン・ドギム(ドクイム)のモデルである宜嬪成氏は、正祖が深く愛した実在の女性でした。

彼女はイ・サンでソンヨンのモデルにもなっていることで有名です。

女官から嬪にまで上り詰め、正祖の心を強くとらえたその姿は、ドラマの中からも私たちに大きな感動と共感を与えてくれました。

彼女の控えめで誠実な性格と、悲しい運命の生涯は、史実に基づく記録からもうかがえます。

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