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ドギム(ドクイム)のモデルは実在したイ・サンの側室・宜嬪成氏

ドラマ「赤い袖先」でイ・セヨンが演じたドギム(ドクイム)は実在した正祖の側室でした。

その名は宜嬪成氏です。

正祖が最も寵愛したドギムとはどんな女性だったのか詳しくご紹介しています。

 

ドギム(ドクイム)のモデルは宜嬪成氏

ドギムのモデルは実在した正祖の側室・宜嬪成氏(ウィビンソンシ)です。

宜嬪成氏はドラマ「イ・サン」でソンヨンのモデルにもなった人物です。

正祖が最も愛した女性でした。

 

ドギム(徳任)は宜嬪成氏の本当の名前です。

姓名はソン・ドギム(成徳任)

<豆知識>ドギムとドクイム
成徳任(성덕임)は一音一音発音すると「ソン・ドクイム」と発音されますが、実際は連音化して「ソン・ドギム」と発音されます。日本では連音化した「ソン・ドギム」をそのままドラマの名前として使用しています。

1753年7月8日に父親・成胤祐(ソン・ユンウ)と母親・扶安の長女として生まれました。

1756年の4歳の時に母親を、1769年の17歳の時に父親を亡くしています。

ドギムは父親が亡くなる前の1762年に10歳で女官になるために宮廷に入りました。

 

ドギムが側室の宜嬪成氏になるまで

実は、ドギムの先祖は役人でしたが、粛清の波を被り一族は滅ぼされてしまったのです。

そのため、ドギムの父親は正祖の母親の実家で使用人をしていました。

恐らく、ドギムはその伝手(つて)で女官になったと思われます。

 

そして、1766年頃にドギムは正祖に出会い寵愛を受けたと言われています。

しかし、別の説ではドギムと正祖の出会いは、1780年頃、ドギムが側室の和嬪尹氏(ファビンユンシ)に仕えていたときとも言われています。

 

ドギムは正祖が気に入ったものの、最初は正室に遠慮して何回も側室になることを断っていたこと。

そのため、1782年に女官の身分で李㬀(イ・スン)を出産したこと。

以上の年代と出来事を考えると、

ドギムと正祖の出会いは1766年の頃、ドギムが正祖を受け入れてのが、1780年の頃とも考えられます。

ドラマ「赤い袖先」でも、宮廷を追い出されたドギムが、再び宮廷に戻り、和嬪尹氏に仕えていたときに、正祖を受け入れて側室になるストーリーになっていました。

 

史実では妊娠時、ドギムの身分は正五品の尚儀(サンウィ)でしたが、出産後、側室の昭容(正三品)になりました。

1783年には宜嬪(正一品)に昇格して、李㬀(イ・スン)も文孝世子になります。

 

側室になってからの不幸な生涯

しかし、その後、不幸が続きます。

1784年、女の子を生みますが、わずか2ヶ月で失ってしまいました。

更に、1786年5月11日に文孝世子が麻疹で亡くなり、9月14日にはドギムも出産を控えて急死してしまいます。

こうして、突然、34歳の人生を閉じてしまいました。

 

宜嬪成氏を失った正祖の落胆ぶり

これを知った正祖(イ・サン)の落胆ぶりはひどかったといいます。

正史の正祖実録にはその時の状況が詳しく残されています。

上企待方切, 不勝悼惜。 朝野莫不以國本爲憂。~(略)~上曰: “病情奇怪, 竟至於此。 從今國事尤靡托矣。”
<引用元:正祖実録1786年9月14日>

<訳>王は非常に期待していたので、心から嘆き悲しんだ。朝廷と民衆はそんな王のことを大変心配した。~(略)~王は言った。「病状が奇怪(常識では考えられないような急変)で、このような事態になってしまった。もう、国事(王子の出産)を依頼するをことはないだろう」

朝廷と民衆が心配するほどの落胆ぶりだったと記録されています。

また、もう、国事(王子の出産)を依頼するをことはないだろう、つまり、「今後、誰かを愛することはない」とまで言っています。

 

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ドギム(ドクイム)はどんな女性だったのか?

ドギム(ドクイム)は読書好きで字が大変上手な女性だったようです。

正祖の妹である淸衍公主(20歳)、淸璿公主(18歳)と一緒に小説「郭張兩門録」を筆写したという記録が残っています。

 

また、正祖の寵愛を受けながらも正室に遠慮して、側室になることを何回も拒んだと言われています。

このことからも、権力に欲がなく、しとやかな優しい女性であったと想像できます。

 

しかし、正祖の側室の中で唯一、揀択(カンテク)を経ないで女官から嬪(ピン)まで上り詰めた女性でした。

それだけ、正祖の寵愛が大きかったのでしょう。

 

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ドギム(ドクイム)の可愛そうな子供たち

ドギム(ドクイム)には2人の子供がいましたが、どちらも小さい頃に亡くなっています。

長男の㬀(スン)は麻疹にかかり、たったの4歳で亡くなりました。

長女は生まれて2ヶ月、病名すら記録に残っていません。

また、3人目の子供は、お腹にいた時に母子ともに亡くなっています。

長男:李㬀(イ・スン)/文孝世子
生年1782年9月7日
没年1786年5月11日
3歳8ヶ月で逝去
長女:翁主(名前不詳)
生年1784年3月20日
没年1784年5月12日
生まれて2ヶ月で逝去

 

正祖の家族構成(正室と側室)

正祖には1人の正室と4人の側室がいましたが、子供にはあまり恵まれず、成人したのは綏嬪朴氏の1男1女だけです。

男の子は孝懿王后の養子となり、後の第23代国王・純祖になりました。

第22代国王・正祖
正室 孝懿王后 子女なし
側室 宜嬪成氏 1男1女 文孝世子 早世
翁主 早世
綏嬪朴氏 1男1女 純祖 第23代王
淑善翁主
元嬪洪氏 子女なし
和嬪尹氏 子女なし

 

ドギム(ドクイム)の死因とは

ドギム(ドクイム)は3回目の出産を控えて亡くなりましたが、死因は不明でした。

二人の子供を幼くして亡くし、心を患っていたとも言われています。

しかし、あまりにも病気の進行が早かったため、何か不審な点があるのでは?と疑われたようです。

 

また、ドギムが亡くなったことに対する正祖の落胆ぶりは大きく、たいへん悲しんでいたことが記録されています。

 

ドギム(ドクイム)のお墓

ドギム(ドクイム)は息子の文孝世子とともに、孝昌園(ヒョチャンウォン)に埋葬されました。

しかし、その後、墓が移設されて、現在は西三陵(ソサムルン)の側室たちの共同墓地に埋葬されています。

死んでからも、子供から離されてしまうとは本当に悲しいですね。

 

ドギムを演じた女優・イ・セヨン

ドラマ「袖先赤いクットン」でドギムを演じた女優はイ・セヨンです。

子役から活躍するイ・セヨンですが、王になった男で王妃役を演じて、日本でも再び注目を集めました。

今回は、日本でも人気のあるイ・サンに最も愛された側室・宜嬪成氏を演じるとあって日本公開前から注目されています。

イ・セヨンに関しては>>チャングムでクミョンの子役は今?【国民的な大女優イ・セヨン】で詳しくご紹介しています。

 

子役からの長いキャリアで今や時代劇で視聴率が取れる女優として大活躍のイ・セヨンです。

今後の活躍が益々、楽しみですね。

 

まとめ

ドラマ「赤い袖先」でイ・セヨンが演じたドギム(ドクイム)は正祖の実在の側室・宜嬪成氏がモデルでした。

宜嬪成氏はイ・サンでソンヨンのモデルにもなっていることで有名ですが、かなり脚色されています。

「赤い袖先」のドクイムはソンヨンよりも、より宜嬪成氏に近い人物として描かれています。

「イ・サン」のソンヨンのイメージとは大分違うので、最初は戸惑う方も多いかもしれません。

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