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端敬王后の家系図【七日の王妃が廃位された史実の真相】

端敬王后(チェギョンワンフ)は中宗の最初の王妃でしたが、わずか7日間で廃位され「七日の王妃」と呼ばれるようになりました。

この記事では、彼女の家系図から廃位された真相、人物像、家族構成、そして波乱の生涯を詳しく解説します。

端敬王后の家系図

端敬王后は高麗時代の医術に優れた宰相・慎脩(シン・ス)を始祖とする名門・居昌慎氏の出身です。

燕山君の時代には、祖父の慎承善(シン・スンソン)は領議政、父の慎守勤(シン・スグン)は右議政、左議政を歴任するなど燕山君の側近として仕えています。

また、祖母の中牟県主は第4代国王・世宗の孫にあたり、王室とも深い関係にありました。

端敬王后の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<端敬王后の家系図>

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端敬王后の家族構成

端敬王后は慎守勤が後妻として迎えた清原府夫人韓氏との間に生まれた娘です。四男三女の次女でした。13歳で晋城大君(後の中宗)と結婚。子どもはできませんでしたが、仲は良かったと伝わります。

関係 名前 生没年 備考
祖父 慎承善 1436-1502 居昌府院君
祖母 中牟県主 1435-不詳 第4代国王世宗の孫娘
外祖父 韓忠仁 1433-1504 仁粋大妃の従兄
外祖母 安東金氏 不詳 第3代国王太宗の娘の慶貞公主の孫娘
慎守勤 1450-1506 益昌府院君
清原府夫人 1447-不詳 清州韓氏
李懌 1488-1544 第11代国王・中宗
子供 子女なし
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端敬王后はなぜ廃位されたのか?|七日の王妃の真相

端敬王后が廃位された背景には政治的要因があり、特に重要とされるのは次の三点です。

・慎氏一族が燕山君の外戚であったこと
・祖父・慎承善、父・慎守勤が燕山君政権の中枢にいたこと
・反正直後の政権が、復讐や再反乱の名分となりうる存在を排除しようとしたこと

端敬王后と燕山君の関係

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<端敬王后と燕山君の関係>

慎氏一族が燕山君の外戚であった

先の家系図から分かるように、燕山君の王妃は慎守勤の妹であり、端敬王后にとっては実の叔母にあたります。

このため慎氏一族は、燕山君の外戚として深く結びついており、クーデター後に「旧君主の外戚勢力」として最初に排除すべき政敵対象と見なされました。

父・慎守勤は反正に協力しなかった

李徳寿が記した「西堂私載・左議政慎公諡状」には、朴元宗から反正の意思を示唆された際、慎守勤が「妹の夫を廃して娘の夫を立てるようなことはできない」として、燕山君を支持する立場を示していたことが記されています。

このため慎氏一族は、新政権の功臣たちにとって警戒すべき勢力と認識されました。

反乱の名分となる王妃を残したくなかった

端敬王后は慎氏一族の娘であり、燕山君の外戚に連なる人物でした。従って、燕山君を排除した政権にとって、彼女は将来の再反乱の象徴となり得る存在とみなされました。その不安となる懸念材料を取り除くために廃位が決定されたとされています。

史料には、中宗が端敬王后の扱いについて慎重な姿勢を見せた記事もありますが、最終的には政権の安定を優先し、廃位が受け入れられました。

端敬王后はどんな女性だったのか?

端敬王后は小さいころに他家に出されて苦労したとされ、その経験から精神的に強く、慎み深い女性であったと考えられています。

端敬王后のプロフィール

生年:1487年1月14日
没年:1557年12月7日(享年71歳)
在位期間:1506年9月2日-9月9日
父親:慎守勤
母親:清原府夫人韓氏
兄弟姉妹:3男1女
夫:中宗

チマ岩伝説は本当か?

端敬王后のチマ岩伝説は、李肯翊が編纂した「燃藜室記述」に記述された説話です。同書は朝鮮で流布した多くの野史を集めた文集です。

では、本当に中宗は端敬王后のチマを見ていたのでしょうか?

チマ岩は高さ約340メートルの仁王山にあり、景福宮からは1.5キロほど離れていました。視力1.5の人は同距離で幅30センチの目標を識別できるとされるため、中宗が岩上のチマを目にすることは理論上可能だったと考えられます。

景福宮の西北にある仁王山の画像

<景福宮の西北にある仁王山>

ただし「燃藜室記述」は中宗反正から約300年後の編纂で、この出来事を裏付ける当時の一次史料はなく、あくまで後世に形成された物語として伝えられたものです。

端敬王后の復位

1739年、実録には英祖が廃妃された慎氏を復位させ、諡号を「端敬」としたことが記録されています。

議上愼妃謚號端敬
<英祖実録:英祖15年3月28日の条>

<訳>王は慎妃に与える諡号を「端敬」とする審議を命じた。

「端敬」の諡号が定められたことで、慎氏は正式に王妃としての地位を回復しました。これは約230年ぶりに名誉が回復されたことを意味します。

「端敬」という諡には、礼と義にかなう端正なふるまい(端)と、つねに慎みを持ち自らを律した姿(敬)を兼ね備えた王妃であったという意味が込められています。

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端敬王后の陵墓

端敬王后の陵墓「温陵(オンヌン)」は、京畿道 楊州市 長興面 護国路に位置します。

1557年に亡くなった端敬王后は廃位のため、実家の慎氏の墓に埋葬されました。しかし、英祖の時代に復位が実現すると、墓は陸に格上げされて現在の場所に移されました。温陵(オンヌン)には端敬王后だけが埋葬されています。

端敬王后の陵墓・温陵の画像。復位後のため王妃の標準形式で丁寧に建造されている

<端敬王后の陵墓・温陵>

場所:京畿道 楊州市 長興面 護国路 255-41

陸の手前には供え物などを置く平たい石・床石(サンソク)と墓前に建てる石灯篭の長明灯が設置されています。陸の両サイドには石柱の望柱石(マンチュソク)、文官の形をした文石(ムンソク)、馬の形とした馬石(マソク)などが設置され、丁重な扱いがうかがえます。

ドラマ「七日の王妃」と史実の違い

ドラマ「七日の王妃」は、端敬王后と中宗の恋愛や、燕山君との対立を中心に描いたフィクション作品です。

しかし、史実ではそのような関係性は確認されておらず、多くの場面が創作に基づいています。

まとめ

端敬王后の人生は、燕山君の強権的な支配に対する反乱に巻き込まれた悲劇の人生でした。彼女の廃位は、本人の性格や能力とは関係なく、慎氏一族の政治的立場によるものです。

家系図を通してその背景を理解することで、「七日の王妃」が単なる悲恋物語ではないことが見えてきます。中宗の即位をめぐる激動の政治状況の中で、端敬王后は本人の意思とは無関係に巻き込まれ、理不尽な悲劇を背負うことになったのです。

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