最後まで寵愛を受けることがなかった懿仁王后
そんな悲しい王妃の人生を家系図から調べてみました。
懿仁王后の家系図
懿仁王后は高麗末期の豪族・朴應珠(朴応珠)を始祖とする潘南朴氏の出身です。
潘南朴氏からは2人の王妃の仁聖王后(仁宗)と懿仁王后(宣祖)、1人の側室の綏嬪朴氏(正祖)を輩出しています。
また、朝鮮時代に200以上となる科拳合格者をだすなど、多くの政治家や学者を輩出している名門氏族です。
<懿仁王后の家系図>
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懿仁王后はどんな王妃だったのか?
懿仁王后は真面目で控えめな性格だったといいます。
夫の宣祖は懿仁王后には目もくれず、側室の恭嬪金氏や仁嬪金氏を寵愛していました。
懿仁王后は生涯、愛されることはありませんでした。
懿仁王后のプロフィール
在位:1569年11月1日-1600年6月27日
諡号:章聖徽烈貞憲敬穆懿仁王后
生年:1555年4月15日
没年:1600年6月27日
享年:46歳
埋葬:穆陵
夫:宣祖
父親:朴応順(朴應順)
母親:完山府夫人(全州李氏)
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懿仁王后の家族
懿仁王后は子供には恵まれませんでした。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 朴応順 | 1526-1580 | 潘城府院君 |
母 | 完山府夫人 | 1435~不詳 | 全州李氏、世宗の庶子・桂陽君の玄孫 |
兄 | 朴東彦 | 不詳 | |
夫 | 宣祖 | 1552-1608 | 第14代王 |
「朴応順」の名前は旧字体で「朴應順」と記載されている場合もあります。
懿仁王后の父・朴応順
懿仁王后の父・朴応順(旧字では朴應順)は成悌元の門下生として学問を学びました。
1555年に進士試に合格して、翌年には官史になっています。
1569年、娘が宣祖と結婚、王妃になると敦寧府都正を経て領敦寧府事に昇進しています。
朴応順は政治には介入することはなく、贅沢もせずに暮らしました。
そのため、周囲の人は朴応順が国舅(王妃の父)であることを知らなかったといいます。
懿仁王后の生涯
1555年、懿仁王后は朴応順と完山府夫人の間に生まれました。
1569年、15歳で3歳年上の宣祖と結婚、王妃に冊封されています。
恭嬪金氏が宣祖の寵愛を独占する
1572年、当時、淑儀の恭嬪金氏が李珒(臨海君)を出産しました。
恭嬪金氏は側室の最高位の嬪に昇格、宣祖の愛を独占していきます。
1575年、恭嬪金氏が後に国王となる李琿(光海君)を出産します。
しかし、2年後の1577年、恭嬪金氏が突然亡くなりました。
仁嬪金氏が宣祖の寵愛を独占する
実は、恭嬪金氏が亡くなる以前から、宣祖は仁嬪金氏を寵愛していました。
仁嬪金氏は、1577年に李珹(義安君)を出産すると、1590年までの間に4男4女の子供を生んでいます。
1592年、壬辰戦争が勃発、倭寇が朝鮮に出兵すると、宣祖は仁嬪金氏とその子を連れて避難します。
懿仁王后は宣祖に同行できず、平安道江界に避難させられました。
この頃、宣祖は光海君を世子に指命、懿仁王后の養子としています。
1597年、丁酉戦争が起こり、倭寇が2回目の朝鮮出兵を行いました。
宣祖はまたしても仁嬪金氏とその子を連れて避難、懿仁王后は光海君とともに避難しています。
懿仁王后の最後
懿仁王后は度重なる避難生活で病状が悪化します。
そして、1600年6月27日、懿仁王后は回復することなく漢陽の慶運宮で亡くなりました。
享年46歳でした。
懿仁王后は最後まで宣祖に愛されることはありませんでした。
陸墓は東九陵にある穆陵で、夫の宣祖とともに埋葬されています。
まとめ
懿仁王后は名門の氏族に生まれ、真面目で控えめな性格の女性でした。
そのためか、宣祖に愛されることはなく、寂しい生涯を終えています。
懿仁王后の生涯は夫が他の女性を寵愛する前半生、逃げ惑う避難生活の後半生と苦難の生涯でした。
亡くなって初めて夫の側で眠る懿仁王后には、安らかに眠って欲しいものです。