宣懿王后は慈愛深く賢明な王妃と評されています。若くして世子嬪となりますが、病弱な景宗を献身的に支えました。
この記事では、宣懿王后の家系図から彼女の人物像、家族関係、そして、その短い生涯を史料をもとに分かりやすく解説します。
宣懿王后の家系図
咸従魚氏は、もともと中国左馮翊出身の魚化仁を始祖とし、南宋の動乱を避けて朝鮮に移住した家系を源流とします。
宣懿王后(ソニワンフ)はこの咸従魚氏の一員として生まれ、父は老論派の重臣・魚有亀、母・完陵府夫人は李夏蕃の娘で中宗の六世孫にあたります。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<宣懿王后の家系図>
英祖実録によると、魚有龜の家門は名流(名望ある名家)ではなかったが、金昌協の門下に出入りしたことで士類(知識人階級)として扱ってもらえるようになったとされています。(英祖実録:1725年4月29日の条)
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当時の重臣・李宜顯(イ・ウィヒョン)が記した宣懿王后の懿陵誌文(墓誌文)には、彼女が落ち着いて慈愛深い性格で貞烈(寡婦となった後も王妃としての節義を守った女性)であったと記されています。
また、実録によると、粛宗が宣懿王后を世子嬪として迎えた時に、彼女を高く評価して「私は汝が賢いことを知る。将来おまえを頼りにすることが多いであろう」と述べたとされています(英祖実録:1730年8月27日の条)
宣懿王后のプロフィール
没年:1730年6月29日(享年26)
氏族:咸従魚氏
父:魚有亀(領敦寧府事)1675-1740
母:完陵府夫人(完山李氏)
兄弟姉妹:2弟(魚錫定、魚錫寧)、4妹
夫:景宗(第20代王)
子女:なし
陵墓:懿陵(ウィルン)
英祖が厚遇した父・魚有亀
英祖が即位した直後、魚有亀は辛壬士禍の首謀とされ処罰が求められましたが、英祖はこれを退け、晩年まで重用しました。
この理由を示す可能性として、魚有亀の八代後の子孫・魚渙教授が公開した手紙があります。世子時代、疑惑で孤立した英祖が魚有亀らの支援を求めた内容で、魚有亀が当時英祖を救ったとすれば、その後の厚遇も説明できると注目されています。
※魚渙(オ・ファン):成均館大学医学部教授
宣懿王后の生涯
宣懿王后は景宗(当時世子)の先妃・端懿王后の死去に伴い入宮しましたが、6年後に景宗は崩御。若くして大妃(敬純王大妃)に冊立されています。
| 年 | 出来事 |
| 1705 | 魚有亀の娘として漢城府東部崇強坊で生まれる |
| 1718 | 世子(景宗)の継室となる(端懿王后の死去に伴う入宮) |
| 1720 | 粛宗が逝去。景宗が第20代王として即位。王妃に冊封される |
| 1721-1722 | 辛壬士禍。多くの老論派の官僚とその親族が粛清される |
| 少論派が朝廷を掌握。父・魚有亀は処罰を免れる | |
| 1724 | 景宗が37歳で急逝。宣懿王后は当時20歳 |
| 1728 | 李麟佐の乱が勃発 |
| 1730 | 26歳で逝去 |
宣懿王后の死因と陵墓
宣懿王后は病で亡くなったとされ病名は明らかにされていません。1730年6月27日に病状が悪化。父・魚有龜が入宮したことが記されていますが、その2日後に亡くなっています。
寅時, 敬純王大妃 魚氏昇遐于魚藻堂。
<英祖実録:1730年6月29日の条>
宣懿王后は生前の希望通り、景宗の懿陵(ソウル市城北区)に合葬されました。懿陵は同原上下陵の形式で、同じ丘の上下に陵が造成されているのが特徴です。
まとめ
宣懿王后は咸従魚氏の名家に生まれ、14歳で世子・景宗の継室となり、即位後は王妃となりました。慈愛深い性格と伝わりますが、子はなく20歳で夫を失い、26歳で早逝しました。
実録をたどると、波乱の政局の中で病弱な景宗を献身的に支え続け、静かに生涯を閉じた若き王妃の姿が浮かび上がります。