世祖(首陽大君)は、甥の端宗を退位させて王位に就いたことで知られます。彼は「王の器」とも称される一方で、兄弟や甥をも排除する容赦のない野心家でした。
この記事では世祖の家系図から、人物像、王位継承の過程、家族構成、そして波乱の生涯に迫ります。
世祖の家系図
世祖は第4代王・世宗を父、第3代王・太宗を祖父にもつ王族の家系に生まれました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<世祖の家系図>
世宗は首陽大君(世祖)が王の器であることは分かっていました。しかし、王位継承の争いを避けるため、長子相続の原則に従って長男の文宗を世子に定めました。
文宗についてはこちら>>文宗の家系図【王妃に恵まれなかった薄幸な王】
この決定は首陽大君(世祖)にとっては納得できない決定でした。父・世宗も祖父・太宗も長男ではなかったからです。
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世祖は飾り気がなく、誠実で強くたくましい人物であったといいます。兄弟の中でも、王の風格を一番もっていた人物で、世祖自身もそのことを認めていました。
そのため、文宗の死後、幼い息子・端宗が即位すると、彼の野心は抑えきれなくなっていきます。
称号:首陽大君(スヤンデグン)
生年:1417年9月29日
没年:1468年9月8日(享年52歳)
在位:1455年7月25日-1468年9月22日
姓・諱:李瑈(イ・ユ)
廟号:世祖
陵墓:光陵
王座を略奪したクーデター|癸酉靖難
1453年10月10日、遂に首陽大君(世宗)が端宗を補佐する領議政の皇甫仁(ファンボ・イン)、左議政の金宗瑞(キム・ジョンソ)など多数の重臣たちを殺害して政権を掌握しました。
これが癸酉靖難(ケユジョンナン)です。
癸酉靖難の詳細こちら>>王女の男の実話【悲劇の物語の背景となった癸酉靖難の実話】
このクーデターは事前に周到に準備されており、右腕の韓明澮(ハン・ミョンフェ)や申叔舟(シン・スクチュ)らが深く関与していました。
癸酉靖難がどのように行われたのかは朝鮮王朝実録の端宗実録1453年10月10日に驚くほど詳しく記載されています。
世祖の即位と端宗の悲劇
癸酉靖難の翌年、味方の錦城大君が流刑となり、端宗は王位を首陽大君に譲位することを決意します。
1455年、39歳の首陽大君が第7代王・世祖として即位、端宗は「上王」となりますが、その後、死六臣の端宗復位運動が発覚。端宗は上王から魯山君に降格され流刑、ついには毒薬による死罪が命じられました。享年17歳でした。
世祖の家族
父の世宗と母・昭憲王后との間には8男2女の子供がいました。
<世祖の家族>
関係 | 称号 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 世宗 | 李裪 | 1397-1450 | 第4代王 |
母 | 昭憲王后 | 不明 | 1395-1446 | 正室 |
長男 | 文宗 | 李珦 | 1414-1452 | 第5代王 |
次男 | 首陽大君 | 李瑈 | 1417-1468 | 第7代王世祖 |
三男 | 安平大君 | 李瑢 | 1418-1453 | 流刑後、賜死 |
四男 | 臨瀛大君 | 李璆 | 1419-1469 | |
五男 | 広平大君 | 李璵 | 1425-1444 | |
六男 | 錦城大君 | 李瑜 | 1426-1457 | 流刑後、賜死 |
七男 | 平原大君 | 李琳 | 1427-1445 | |
八男 | 永膺大君 | 李琰 | 1434-1467 | |
長女 | 貞昭公主 | 不明 | 1412-1424 | |
次女 | 貞懿公主 | 不明 | 1415-1477 |
世祖の夫人と子供
世祖には一人の正室と3人の側室の間に5男1女の子供をもうけました。
長男の桃源君は若くして亡くなりますが、韓確の娘(後のインス大妃)と結婚して、第9代国王・成宗を生んでいます。また、弟の睿宗は成宗を継いで第8代国王に即位しています。
ドラマ「王女の男」では正室との間に二人の娘がいましたが、史実ではセリョンのモデルに相当する娘の存在は見当たりません。
<世祖の夫人と子供>
関係 | 名前 | 子供 | 備考 | |
正室 | 貞熹王后尹氏 | 2男1女 | 桃源君 李暲 | 第9代国王成宗の父 |
懿淑公主 | 鄭顕祖の妻 | |||
睿宗 | 第8代国王 | |||
側室 | 謹嬪朴氏 | 2男 | 徳源君 李曙 | |
昌原君 李晟 | ||||
廃昭容朴氏 | 1男 | 阿只 | ||
淑媛申氏 | なし | 申叔舟の娘 |
世祖の政治と晩年
世祖は王位に就くとすぐに、王権強化に乗り出し、集賢殿を廃して六曹直啓制を復活させました。反対勢力には容赦なく拷問や処罰を行い、中央集権体制を確立しましたが、側近に権力が集中し派閥抗争の火種となります。
晩年はハンセン病を患いながらも、政治制度をまとめた経国大典の編纂を進め、死の前日に次男へ譲位して52歳で亡くなっています。
後代の儒者たちはその冷酷な手段を批判しつつも、安定した政治体制を築いた実績を高く評価しています。
世祖の経歴と出来事
経歴と出来事を一覧に整理しています。
年 | 年齢 | 出来事 |
1417 | 1 | 世宗の次男として生まれる |
1445 | 29 | 首陽大君に冊封される |
1452 | 36 | 兄の文宗が逝去。端宗が即位する |
37 | 癸酉靖難を起こす | |
1454 | 38 | 錦城大君の謀反が発覚。流罪の上、賜死 |
1455 | 39 | 端宗が譲位して、世祖が即位する |
1456 | 40 | 死六臣(サユクシン)の6人が処罰される |
1457 | 41 | 端宗が降格の上、流罪。流刑地で賜死 |
1468 | 52 | 睿宗に譲位して、逝去。(享年52歳) |
まとめ
首陽大君(世祖)は王の器と言われながらも、王位を継承することができず、自らの手で王位を奪い取っています。彼の家系図をたどると、朝鮮王朝初期の王位継承が複雑で血の犠牲を伴うものであったことが分かります。
世祖が築いた体制は、その後の朝鮮王朝の安定にもつながっていくものでしたが、世祖は晩年、王座に就くために殺害した王族や臣下のことを思い、心苦しんだとも言われています。