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定宗の家系図【生涯、弟を恐れ、弟に操られた王】

定宗は王位への野心などありませんでした。

無理やり王にさせられた定宗は

弟の李芳遠(イ・バンウォン)を恐れ、言いなりの王でした。

定宗について、家系図からご紹介します。

 

定宗の家系図

定宗は新羅で司空を務めた李翰を始祖とする全州李氏の出身です。

<豆知識>司空とは
囚人管理と各種土木工事の管理をした官職です。当時の土木工事は囚人を動員して行われてので、囚人管理と各種土木工事は同じ部署が管理しました。

定宗は朝鮮王朝の初代国王・太祖の次男として生まれました。

<定宗の家系図>

母親の神懿王后韓氏(ハン氏)は太祖の第一夫人でしたが、建国前に亡くなっています。

神懿王后は韓卿の娘で安辺韓氏一族の出身でした。

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定宗はどんな王だったのか?

性格が穏やかでしたが、勇猛で武将としては優れていました。

しかし、王の器ではないと自覚していました。

 

王位に興味はありませんでしたが、第一次王子の乱の後、李芳遠に推され、半強制的に王世子となりました。

太祖が譲位すると、第2代王・定宗に即位しています。

 

定宗のプロフィール

第2代国王
廟号:定宗(チョンジョン)
本名:李芳果(イ・パングァ)
生年:1357年7月1日
没年:1419年9月26日
在位:1398年10月14日-1400年11月28日
諱:芳果(パングァ)
父:太祖
母:神懿王后
王妃:定安王后
陵墓:厚陵

 

定宗の兄弟

定宗は8人兄弟の次男でした。

長男から六男までが同じ母親・第一夫人神懿王后の子供で、七男、八男が第二夫人神徳王后の子供でした。

母親 本名 称号 生年 没年 享年
第一夫人 長男 李芳雨 鎮安大君 1354 1394 41
次男 李芳果 永安大君 1357 1419 63
三男 李芳毅 益安大君 不明 1404
四男 李芳幹 懐安大君 1364 1421 58
五男 李芳遠 靖安大君 1367 1422 56
六男 李芳衍 徳安大君 1370 1387 18
第二夫人 七男 李芳蕃 撫安大君 1381 1398 18
八男 李芳碩 宜安大君 1382 1398 17

第一次王子の乱が起こった1398年には、長男の李芳雨は既に亡くなっており、次男の李芳果(定宗)が実質、長男の立場でした。

 

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定宗の家族

正室の定安王后との間には子供はできませんでした。

しかし、側室との間には、多くの庶子をもうけています。

分かっているだけで、9人の側室との間に17男8女の子供を得ています。

定安王后について詳しくは>>定安王后の家系図【定宗に譲位を勧めた王妃の寂しい生涯】をご覧下さい。

 

定宗の生涯

1357年7月1日、李芳果(定宗)は李成桂と神懿王后の間の次男として生まれました。

 

戦で多くの功績を上げる

1377年に智異山で、1380年に引月駅で倭寇を撃退するなど、李芳果は李成桂に付き添い数々の武功をあげていきます。

1390年、李芳果は昌王の廃位と恭譲王の擁立に貢献したとして、密直副使に任命されると、1392年の朝鮮開国時には、永安君に冊封されています。

 

第2代王・定宗として即位

李成桂が初代国王になっても、王位への野心は全くありませんでした。

しかし、1398年8月の第一次王子の乱後、李芳遠により王世子に祭り上げられました。

同年9月、太祖が譲位すると、李芳果は第2代王・定宗として即位します。

1399年、王になった定宗は最初に漢陽の運気が悪いという理由で、首都を血なまぐさい漢陽から開京へ遷都しました。

 

王位を李芳遠に譲位

1400年1月、四男の李芳幹(イ・バンガン)が第二次王子の乱を起こします。

しかし、乱はすぐに鎮圧され、李芳幹は流配になり、李芳遠が王世子に冊封されます。

これで、名実ともに最大権力者は李芳遠となりました。

 

同年11月、李芳遠を恐れた定宗は王妃・定安王后の勧めで譲位を決意します。

遂に、第3代王・太宗の誕生です。

 

定宗の晩年

定宗は重い負担が取れたのか、譲位後は、日々、狩りや宴会などを楽しみながら悠々自適の生活を送りました。

そして、1419年9月26日、63歳で生涯を閉じています。

 

まとめ

定宗は2年という短い在位期間であり、ほとんど実権がありませんでした。

実質、李芳遠が実権を握り、朝廷を掌握していました。

 

そのため、定宗は長い間、廟号もなく、「恭靖大王」と呼ばれていました。

これは、太宗(李芳遠)と世宗が定宗を王として認めていなかったためで、創業者(太祖)に次ぐ功績のあった王に与えられる廟号「太宗」を譲らなかったからです。

 

定宗という廟号が贈られたのは、262年後の粛宗の時代、1681年12月のことです。

定宗は長い間、王として扱われなかった悲運の王でした。

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