大ヒットしたドラマ「王女の男」の実話とは?
王女の男のベースとなった史実を詳しくご紹介します。
王女の男の実話
ドラマ「王女の男」は史実をベースに架空の人物を織り交ぜたフィクションです。
物語の背景となった実話を詳しくご紹介します。
世宗の死去と文宗の即位
1442年ごろから世宗は糖尿病のため、健康状態がよくありませんでした。
そこで、世子の文宗が摂政として政務に携わっていました。
1450年2月17日、遂に世宗が亡くなり、文宗が第5代国王として即位しました。
これにより、平昌郡主は敬恵公主と称されました。
端宗の孤独な即位
1452年5月14日、文宗が病のため亡くなり、まだ12歳だった端宗が即位しました。
端宗は幼少でしたが、大妃が既に亡くなっていたため垂簾聴政もできませんでした。
そこで、端宗を補佐したのが皇甫仁(ファン・ボイン)、金宗端(キム・ジョンソ)らの臣下でした。
文宗は遺言で皇甫仁や金宗端を顧命大臣に指名、端宗の補佐を命じていました。
皇甫仁は領議政、金宗端は左議政の官職となりました。
特に、金宗端は文武両道に通じており、兵権をも掌握していました。
金宗端らは、あらかじめ通すべき人事案に印を付けておき、形式的に王に裁可させるなど、朝廷を牛耳っていきます。
孤独な端宗にとって姉の敬恵公主が唯一の肉親であり、端宗は頻繁に敬恵公主の家を訪れていたといいます。
首陽大君と金宗瑞の激しい対立
失落していく王権を忸怩(じくじ)たる思いで見ていたのが首陽大君でした。
首陽大君は王室の最年長者として、錦城大君とともに端宗を王族として補佐していました。
首陽大君は王族の政治参加を拒絶する金宗瑞と激しく対立していきます。
金宗瑞たちは首陽大君に対抗する王族として安平大君に接近、後ろ盾として首陽大君を牽制しました。
王族を引き込んだ金宗瑞たち大臣が優勢の状況になります。
1452年9月、首陽大君は謝恩使として明に赴任しました。
このとき、首陽大君は同行した申叔舟や集賢殿の鄭麟趾、権擥などを傘下に加え、クーデターのシナリオを計画したと考えられています。
遂に癸酉靖難が勃発
明から帰国した首陽大君が遂に、クーデターを起こします。
1453年10月10日、首陽大君は譲寧大君、申叔舟、権擥、韓明澮らと結託して、朝廷を牛耳る大臣たちを殺害しました。
癸酉靖難(ケユジョンナン)の勃発です。
首陽大君は対抗勢力の首領・金宗瑞とその息子を直々、金宗瑞宅に出向き、惨殺しました。
そして、王命を利用して皇甫仁らの主要な大臣たちを宮廷に呼び出し、次々と殺害していきました。
このとき、韓明澮の殺生簿が利用されたといいます。
また、王族として首陽大君と対抗していた安平大君は江華島に流刑になった後、賜死させられました。
こうして、首陽大君は政権を掌握して領議政(領議政府事)となります。
癸酉靖難が起こった日、端宗は敬恵公主の家で寝泊まりしていました。
錦城大君と鄭悰が濡れ衣で流刑
1455年、錦城大君と鄭悰が濡れ衣を着せられて流刑を命じられました。
このとき、端宗が懇願して鄭悰は敬恵公主の病気を口実に流刑地から戻されました。
(最初から、流刑地へ行っていないとの説もあります。)
錦城大君は李甫欽(イ・ボフム)府使が統治する順興府へ流刑となりましたが、後に李甫欽とは端宗復権で手を握ることになります。
首陽大君が第7代王に即位
領議政となった首陽大君に権力は集中、孤立した端宗は譲位を願い出ます。
1455年6月11日、端宗は、名ばかりの「上王」に据えられす。
そして、首陽大君が念願の第7代国王・世祖として即位しました。
痛ましい死六臣事件
1456年6月、明の使節の歓迎行事のときに端宗の復位を狙った世祖の暗殺が計画されました。
集賢殿の学者たちが計画しましたが、仲間の金礩(キム・ジル)の裏切りで計画は失敗に終わります。
ドラマ同様に韓明澮(ハン・ミョンフェ)が危険を察知、世祖殺害の役目を担った護衛兵を宴会場から外したと言われています。
集賢殿の学者たちは処刑され、関連した者70余名も処刑されました。
この集賢殿の学者たちは最後まで端宗に忠義を尽くしたとして、後に、「死六臣」と呼ばれました。
鄭悰の流刑と敬恵公主の降格
死六臣事件に関わったとして、敬恵公主の夫・鄭悰が流刑となりました。
このとき、敬恵公主も同行し、夫と流刑生活を共にします。
1456年6月27日の世祖実録には、「鄭悰の妻(敬惠公主)を輿で流刑地に送るように義禁府に伝えた。」と記録されています。
このとき、敬惠公主は「鄭悰の妻」と記載されており、公主から降格されています。
ドラマでは夫の処刑後に、息子の鄭眉壽が生まれていますが、史実では1456年に鄭眉壽は流刑地で生まれています。
端宗の降格と流刑
1457年6月、上王端宗は魯山君に降格の上、江原道寧越に流刑となりました。
流刑地での端宗の扱いは、ろくな食事も与えず酷かったと言われています。
流刑地での錦城大君の謀反
流刑地で錦城大君が順興府使の李甫欽と結託して、端宗の復位を計画しました。
しかし、1457年6月、奴婢の密告により計画は失敗します。
錦城大君は逮捕され、協力者の順興府使・李甫欽は処刑されました。
8月には、順興府は反逆の村として廃止、民家は破壊され、住民は虐殺されています。
その後、錦城大君は毒薬による死罪を命じられました。
端宗が毒殺される
1457月10月、世祖は魯山君(端宗)に死罪を命じました。
魯山君が生きているかぎり、復位を狙う動きは終わらないと考えたのです。
1457年10月24日、端宗は配流先で賜死させられました。
享年17歳でした。
端宗の遺体は無惨にも川(東江)に投げ込まれた。
巻き添えを恐れ、誰も死体を埋葬するものはいませんでしたが、余りにも可哀想に思った寧越戸長の厳興道が死体を嚴家の墓所に運び埋葬したといいます。
1698年、粛宗が端宗の名誉を回復、王として追尊しました。
端宗という名もその時に諡号されたもので、厳興道が埋葬した墓は王陵(荘陵)として扱われることになります。
しかし、既に241年の時が経っていました。
敬恵公主の夫の鄭悰が謀反に失敗
1461年、敬恵公主の夫・鄭悰が僧侶ソンタンたちと謀反を企てたことが発覚しました。
鄭悰は捉えられ、10月20日に最も残酷な陵遅處斬(ヌンジチョチャム)の刑で処刑されています。
本来、敬恵公主とその息子は連座で死罪になりますが、貞熹王后の猛反対で死罪は逃れています。
敬恵王女は妊娠中でした。
敬恵公主の身分の回復
1462年、敬恵公主と息子・鄭眉壽は漢陽に呼び戻され、屋敷と財産が返還されました。
実録には、これ以降「敬惠公主」の名前での記録されています。
敬惠公主の子供に対しても、世宗は大罪人の扱いを禁じました。
漢陽に戻った敬恵公主は子供を貞熹王后にあずけ、尼となり寺で暮らしたとの実録の記録が残っています。
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ドラマのモチーフになった「錦鶏筆談」
ドラマ「王女の男」は錦鶏筆談(クムゲピルダム)の説話をもとに創作された物語です。
錦鶏筆談は1873年に発表された説話集で、第26代王・高宗の時代の文人である徐有英(ソユヨン)により書かれました。
説話は全部で141編あり、「王女の男」はその中の1編がモチーフになっています。
この説話では、世祖の娘の世熺(セヒ)と金宗瑞の孫が出会い、愛し合う物語となっています。
ドラマでは世熺をセリョンに金宗瑞の孫を金宗瑞の息子に置き換えています。
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史実とドラマの違い
ドラマは史実に架空の物語を加えたフィクションですが、ドラマにはいくつかの史実と相違する点が見られます。
セリョンもスンユも架空の人物?
実録には世祖には娘の懿淑公主がいましたが、この人物はドラマの次女・イ・セジョンのモデルです。
実録の記録では、世宗が亡くなったときの石碑には首陽大君の娘は二人とされているのに、世祖(首陽大君)が亡くなったときの石碑は一人になっています。
理由は分かりませんが、これが物語のヒントになっているそうです。
また、金宗瑞の三男に金承琉(キム:スンユ)という人物が実在したとの記録があります。
癸酉靖難のときには、既に妻子がいたとも言われています。
しかし、詳細は不明です。
従って、セリョンもスンユも実在した可能性はありますが、性格や人格はすべて創造された人物といえます。
敬恵公主と鄭悰は3年前に結婚していた
史実の敬恵公主は1450年1月24日に鄭悰(チョン・ジョン)と結婚しています。
父の文宗がまだ、世子の時代です。
敬恵王女は父親が妻を亡くした寂しさを思い結婚が遅れていました。
しかし、健康状態の悪かった世宗の病状が悪化しました。
もし、王が亡くなると3年間は喪に服するため結婚ができませんでした。
1450年、父親の文宗は娘を結婚させることを決意します。
そこで、選ばれたのが鄭忠敬の息子の鄭悰でした。
父の文宗がまだ、世子のため、王女は敬恵公主ではなく平昌郡主(ピョンチャンクンジュ)と称されました。
端宗には王妃がいた
ドラマには登場していませんが、端宗には王妃がいました。
1454年1月22日、端宗が宋玹寿の娘を王妃に迎えています。
端宗が14歳、定順王后が15歳のときでした。
1457年、上王端宗が魯山君に降格の上、流刑にされると、定順王后も夫人に降格されてしまいます。
そして、10月、端宗が賜死すると、定順王后は尼となり正業院で暮したとも、また、東大門の外の葺の家に暮らしたとも言われています。
1521年、定順王后は82歳で生涯を閉じました。
実在した登場人物
「王女の男」は史実をベースにした物語のため、多くの実在した人物が登場しています。
役名 | 実在のモデル | 備考 |
キム・スンユ | 金承琉 | 金宗瑞の三男 |
キョンヘ王女 | 敬恵公主 | 文宗の長女 |
チョン・ジョン | 鄭悰 | 敬恵公主の夫 |
シン・ミョン | 申㴐 | 申叔舟の次男 |
キム・ジョンソ | 金宗瑞 | 左議政 |
首陽大君(世祖) | 首陽大君 | 第7代国王 |
イ・ゲ | 李塏(イ・ゲ) | 集賢殿の学者 |
アンピョン大君 | 安平大君 | 世祖の弟 |
クムソン大君 | 錦城大君 | 世祖の弟 |
キム・スンギュ | 金承珪 | 金宗瑞の長男 |
ユン氏 | 貞熹王后(チョンヒワンフ) | 世祖の王妃 |
イ・スン | 桃源君(トウォングン) | 世祖の長男 |
イ・セジョン | 懿淑公主 | 世祖の長女 |
文宗 | 文宗 | 第5代国王、首陽大君の兄 |
ホンウィ(端宗) | 端宗 | 第6代国王、文宗の長男 |
シン・スクチュ | 申叔舟 | 直提学→領議政 |
クォン・ラム | 権擥 | 左議政 |
ハン・ミョンフェ | 韓明澮 | 策士→右議政 |
オンニョングン | 温寧君 | 太宗の庶子 |
チョ・グッカン | 趙克寛 | 右賛成 |
ミン・シン | 兵曹判書? 吏曹判書? |
まとめ
王女の男のもとになった癸酉靖難は実際に起こったクーデターでした。
この事件により、世祖は甥を殺した残虐な暴君として、支持したグループの勲旧派(フングパ)は残虐な党派として、後に、大きな批難を受けました。
こうした大事件を背景に「王女の男」は、架空の人物を絡ませ悲劇的な男女のラブストリーに仕上げています。