臨海君とは、宣祖の長男にして光海君の兄。王位を目前にしながらも、暴虐と不運の果てに流刑・殺害された悲劇の王子です。
本記事では、臨海君の家系図と波乱の生涯を史実に基づいて詳しく解説。実子はいなかったのか?なぜ王位を継げなかったのか?その謎を解き明かします。
臨海君の家系図
臨海君(イメグン)は第14代国王・宣祖の長男であり、側室・恭嬪金氏の子どもです。第15代国王・光海君の同母兄にあたります。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<臨海君の家系図>
1608年に宣祖が亡くなり、光海君が即位すると危険視された臨海君は謀反の罪で流刑とされ、翌年、亡くなっています。
当時、明は長男の臨海君が即位しなかったことに難色を示していたといいます。
【PR】スポンサーリンク臨海君の人物像|気性が荒く廃位
臨海君(イ・メグン)は宣祖の長子として王位継承の第一候補でしたが、気性の荒さと度重なる暴力沙汰により世子から外されました。
壬辰倭乱では軍に参加するも、民に対する横暴さが原因で密告され、順和君と共に加藤清正の捕虜になります。和睦によって釈放された後も、その屈辱から性格はさらに荒れ、豪遊や乱暴を繰り返したと伝えられています。
臨海君のプロフィール
生年:1572年8月14日
没年:1609年5月2日
享年:38歳
実父:宣祖
実母:恭嬪金氏
実弟:光海君
妻:陽川許氏(許銘の娘)
子供:1男(養子)1女
臨海君の家族|跡取りに養子を迎える
仁祖反正後に臨海君は復位。資産は戻され、家族は元の生活に戻りますが、臨海君には跡取りがいませんでした。そこで、慶昌君(臨海君の異母弟)の次男(陽寧君)を養子に迎えています。
関係 | 名前 | 備考 |
妻 | 不明 | 陽川許氏、許銘の娘 |
長女 | 不明 | |
長男 | 陽寧君 | 養子(慶昌君の息子) |
臨海君の母・恭嬪金氏とは?
臨海君と光海君を生んだ恭嬪金氏(コンビン キムシ)は、文臣・金希哲(キム・ヒチョル)の娘で、宣祖の寵愛を受けた側室でした。
1577年に25歳の若さで病死。光海君が即位すると、恭聖王后の称号が与えられ、墓も陸(成陵)になります。しかし、光海君が廃位されると、元の地位に戻され全ての号が取り消されました。
臨海君の子が日延上人?
日延上人は白金覚林寺や妙安寺を開いた日蓮宗の僧侶です。一説によると、臨海君の子が日本に渡り加藤清正の養子となり日延上人になったとも言われます。
しかし、「宣祖実録」や「光海君日記」などの正史に、臨海君に実子がいた記録はなく、死後は慶昌君の子・陽寧君を養子に迎えたとされています。このため、日延上人が臨海君の子という説は後世の創作伝承と考えられます。
臨海君の生涯
臨海君は長子(最初の男の子)に生まれながら、世子になることはなく、最後は流配の地で無惨な死を遂げています。
年月 | 出来事 |
1572年 | 宣祖の長子として生まれる |
1577年 | 6歳のときに母・恭嬪金氏が亡くなる |
1585年 | 14歳で許銘の娘と結婚する |
1592年 | 壬辰倭乱で加藤清正の捕虜となる |
1608年 | 宣祖逝去。光海君が即位 |
臨海君は流刑とされる | |
1609年 | 流配地で殺害される。享年38歳 |
1623年 | 仁祖反正で光海君が廃位 |
臨海君が復位される | |
1632年 | 慶昌君の息子・陽寧君を養子とする |
臨海君の最期
実録では次のとおり、臨海君は流配地で毒を飲まされ殺害されたと記録されていますが、李爾瞻(イ・イチョム)の送った刺客により殺害されたとも言われています。
殺臨海君于圍所。 臨海在圍墻中, 只有一官婢在側, 穴通飮食。 至是守將李廷彪迫以飮毒, 不肯, 遽縊殺之。<光海君日記:1609年4月29日より抜粋>
臨海君は現在、京畿道南楊州市にあるお墓に眠っています。
まとめ
臨海君は気性の荒さから、長子に生まれながら世子になることはなく、最後は無惨な死を遂げました。
壬辰倭乱で戦に参加したときも、おそらく、功に焦り捕虜となり、益々、自虐的になっていったのではないでしょうか。
仁祖反正で廃位された光海君とともに、ある意味、悲劇的な兄弟だったと言えるかもしれません。