金春秋(武烈王)の影であまり目立たない文武王ですが、
文武王は初めて三国統一を成し遂げた王です。
文武王はどんな王だったのか。
家系図から調べてみました。
文武王の家系図
文武王の父は第29代王の武烈王(金春秋)であり、母は金庾信の妹の文明夫人です。
母親の文明夫人は金舒玄の娘であり、新羅に併合された金官伽倻の王家の一族でした。
金官伽倻の初代王は首露王で金海金氏の始祖でしたが、第10代王・仇衡王が新羅に降伏、貴族である真骨身分と金姓を与えられました。
仇衡王は文明夫人の曽祖父にあたります。
<文武王の家系図>
三国遺事によると、妻の慈儀王后は第24代・真興王の孫の金善品の娘にあたります。
また、善徳女王は文武王の祖母の姉(妹の説もある)にあたります。
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文武王はどんな王だったのか?
文武王のプロフィール
新羅第30代国王
在位期間:661年-681年
姓:金
諱:法敏
諡号:文武王
生年:626年
没年:681年
享年:56歳
父:武烈王(金春秋)
母:文明夫人(金庾信の妹)
妻:慈儀王后(金善品の娘)
陵墓:文武王陵
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文武王の家族
武烈王は側室の子供も含めると、11男3女の子供をもけています。
文明夫人との間には6男1女の子供をもうけ、金法敏(文武王)は長男として生まれました。
<文武王の家族>
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 武烈王 | 603-661 | 金春秋、第29代王 |
母 | 文明夫人 | 610-681 | 文姫、金庾信の妹 |
本人(長男) | 金法敏 | 626-681 | 文武王 |
次男 | 金仁問 | 629-694 | 武将 |
三男~六男 | 不詳 | ||
妹 | 智炤公主 | 不詳 | 金庾信の妻 |
妻 | 慈儀王后 | 不詳-681 | |
息子 | 金政明 | 不詳-692 | 第31代王・神文王 |
文武王の異母兄弟姉妹
父・武烈王の最初の妻は宝羅宮主で、1男1女を生んでいます。
その他、側室の子も含めると、文武王の異母兄弟姉妹は次のとおりです。
<文武王の異母兄弟姉妹>
関係 | 名前 | 備考 |
最初の夫人 | 宝羅宮主 | 最初の妻、長男を出産後亡くなる。ミシルの息子宝宗の娘 |
長女 | 古陀炤公主 | 百済に殺害される |
長男 | 金文主 | 早世 |
後宮 | 金宝姫 | 文明王后の姉、金庾信の長妹 |
五男 | 金皆知文 | |
九男 | 金車得 | |
次女 | 瑶石公主 | 僧侶の元暁の妻、子供は大儒学者、薛聡(ソルチョン) |
十男 | 金馬得 | |
後宮 | 不詳 | |
十一男 | 金仁泰 |
文武王の姉に当たる古陀炤(コソタ)は大耶城陥落時に百済に殺害されています。
文武王の生涯
文武王の幼少の頃の記録はほとんどありません。
太子に冊封される
626年、金春秋と文明夫人の間に最初の息子として生まれました。
650年6月、金法敏は唐を訪れています。
654年、波珍飡(4等官)の位で兵部令(長官)に任命されると、翌年の3月には太子に冊封されました。
百済を滅ぼし、戦功を上げる
660年、文武王は金庾信らと5万の兵を率いて百済と戦い戦功を上げています。
3月、新羅・唐の連合軍の兵(唐が水上から1万、新羅が陸から5万)が百済に侵攻しました。
7月9日、黄山の戦いで階伯の率いる決死隊を破ると、7月12日には唐軍が王都を包囲しました。
「黄山の戦い」は階伯が妻子を殺して決死の覚悟で臨んだ戦いでした。
唐軍に包囲された百済の義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏します。
そして、7月18日、遂に義慈王が降伏して、百済は滅亡しています。
文武王として即位する
661年6月、武烈王が突然、逝去しました。
文武王は高句麗との戦の最中でしたが、すぐに帰国して王位に就いています。
百済復興運動の鎮圧
義慈王が降伏して、百済が滅亡したように思えましたが、実際には中央政府が崩れただけで、多くの軍事力は地方に残されていました。
百済の残党軍は各地で新羅軍に攻撃を繰り返しました。
残党軍は福信や道琛などの指導者の下、次第に統率されていきます。
百済滅亡を知った倭は唐の軍事的脅威にダイレクトにさらされる危機感から、百済復興を全面的に支援することを決めました。
百済は倭の友好国であると同時に唐侵攻の防波堤だったのです。
そこで、661年9月、人質の百済の王子・扶余豊を5000 人の先遣部隊とともに帰国させました。
更に、662年5月には17,000人の部隊を派遣しています。
各地で百済復興運動が展開される中、662年7月、遂に新羅と唐の連合軍が百済復興軍に攻勢をしかけました。
このころ、百済復興軍の内部では主導権争いが発生、道琛、道琛が殺害され、百済復興軍の勢力は急速に弱まっていました。
663年3月、倭は一挙に反転攻勢に出ようと27,000人の大軍を唐軍が駐留する白村江へ送り込みました。
同年8月27日、新羅と唐の連合軍は百済の支援に駆けつけた倭の水軍と豊王(扶余豊)率いる復興軍と白村江(現在の錦江河口付近)で激突します。
有名な白村江の戦いです。
戦いは2日間で終結、唐の水軍は倭の軍船1000隻のうち400隻を沈め、新羅と唐の連合軍の大勝利で終わりました。
戦いに敗れた豊王(扶余豊)は高句麗に逃亡しています。
そして、9月7日には新羅と唐の連合軍は周留城を陥落させ、百済復興軍を壊滅、百済再興の望みを完全に断ち切りました。
生き残った百済の王族、貴族、庶民の多くは倭に亡命したといいます。
百済復興運動との戦いは義慈王が降伏してから3年にも及ぶ戦いとなりました。
高句麗の滅亡
義慈王が降伏した翌年の661年と662年の2回に渡って、唐は高句麗を攻撃しましたが、失敗しています。
しかし、666年、高句麗の実質的な支配者であった淵蓋蘇文が亡くなりました。
中心力を失った高句麗内部では長子の男生と、弟の男建、男産が対立して分裂状態となります。
そして、兄が城を離れた隙に、弟たちが謀反を起こしました。
弟に権力を掌握された長子の男生は国内城に立てこもり、最後は10万人を率いて唐に投降しています。
唐に高句麗を攻める絶好の機会が訪れました。
今や、百済は完全に滅び、戦略上の弱点である補給路も新羅から食糧の援助を受ける同盟を確保していました。
667年、唐の高宗は高句麗に出兵、西の拠点である新城を陥落させます。
更に、翌年には新羅と共に平壌を包囲、男建と男産を捕らえています。
こうして、遂に668年、主導者を失った最強国の高句麗は内紛により、あっけなく滅亡してしまいました。
武烈王の夢・三国統一を実現
高句麗を滅ぼした文武王にとって、次の大きな課題は唐の排除でした。
663年4月、唐は新羅に鶏林州都督府を設置して、文武王を大都督に任命しています。
都督府は唐が征服した国に設置する統治機関で、唐は新羅を同盟国というよりは従属国と見なしていたことになります。
唐の侵略に不安を持っていた新羅は、敵対していた倭との国交を回復、友好関係を築いていました。
公然と、高句麗、百済の地域に侵攻してくる唐に対して、遂に670年3月、新羅が烏骨城に駐屯していた唐軍を攻撃しました。
これにより、新羅と唐の戦争が始まり、676年に唐が撤退するまで激しい戦闘が繰り広げられました。
新羅と唐の戦闘は674年に小康状態に入りましたが、675年に再び、唐が激しく新羅領土に攻め込んできまた。
泉城、七重城、買肖城で激しい戦闘が行われましたが、最後は新羅軍が20万の唐軍を買肖城で壊滅させ、676年に戦局を挽回するため送り込んだ唐の水軍を錦江河口の伎伐浦で打ち破ります。
そして、677年、平壌から唐の勢力を完全に追い出し、遂に武烈王の夢であった三国統一の大業を成し遂げたのです。
文武王は三国統一から4年後の681年7月1日に亡くなりました。
享年56歳でした。
まとめ
文武王は金春秋の息子として生まれ、金春秋(武烈王)の夢であった三国統一を成し遂げます。
単独で三国統一は難しいと判断した新羅は唐に援軍を要請、新羅と唐の連合軍で百済、高句麗を次々と滅ぼしていきました。
最後は朝鮮半島から唐を排除して三国統一を成し遂げます。
金春秋が描いた三国統一の夢を、遂に息子の文武王が達成したのです。