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福城君の家系図【党争に翻弄された中宗の第一王子】

福城君(ポクソングン)は、「灼鼠の変」で失脚した中宗の第一王子です。中宗に寵愛され、一時は世子候補とも見られた福城君でしたが、党争に巻き込まれ、最終的には母・敬嬪朴氏とともに賜死となりました。

この記事では福城君の家系図をもとに、家族構成や人物像、失脚から復位までの生涯を史料をもとに詳しく解説します。

福城君の家系図

福城君(ポクソングン)は、第11代王・中宗と側室・敬嬪朴氏の間に生まれた長子です。

異母弟には、章敬王后の子である李峼(後の仁宗)がいました。しかし、章敬王后はすでに亡くなっていたため、敬嬪朴氏は福城君を王位に就けようとしていたと考えられています。

また、福城君は実子の男子を残さずに亡くなったため、後に養子を迎えて家系が継承されました。最終的には第14代王・宣祖の四男・信城君が福城君家を継承しています。

福城君の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<福城君の家系図>

福城君の家族構成

母方の家系については、祖父・朴秀林、叔父・朴仁亨・朴仁貞の名が確認できるものの、詳しい系譜は伝わっていません。

福城君には二人の妹がいました。また、尹仁範の娘と結婚して、娘・李雲環が誕生しています。

関係 名前 生没年 備考
外祖父 朴秀林 不詳
中宗 1488-1544 第11代王
敬嬪朴氏 不詳-1533
叔父 朴仁亨 不詳
叔父 朴仁貞 不詳
本人 福城君 1509-1533
恵順翁主 1512-1583
恵静翁主 1514-1580
坡平尹氏 不詳-1530 尹仁範の娘
李雲環 不詳
崔玘、崔珷 不詳
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福城君はどんな人物だったのか

福城君の性格を直接記述した記録は実録には残っていません。
しかし、福城君に改封された10歳の頃に、金銀や珠玉を身につけていることを諌める上疏が出されています。

福城君已知學文, 而猶以金銀珠玉爲首飾。 幼穉之時, 不可習以奢侈也。 臣竊恐元子之服飾, 亦如此也。
<中宗実録:中宗13年6月1日の条>

<訳>福城君はすでに学問を理解する年頃になっているにもかかわらず、なお金銀や珠玉で身を飾っています。幼少期から贅沢や派手な生活に慣れさせてはなりません。

この記録から、福城君は幼少期から華美な装飾を与えられる環境にあり、周囲から贅沢を懸念される立場にあったことが分かります。 さらに、こうした上疏が出された背景には、中宗が敬嬪朴氏と福城君の母子ともに寵愛していたことも関係していたと考えられます。

また、中宗から「福城君を、礼法を身につけた王族として育てよ」という教育命令が出されるなど(中宗実録:中宗11年11月15日)、中宗の福城君に対する期待が見られます。

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危険視される福城君

福城君は、王位継承をめぐる政治対立の中で次第に危険視される存在となっていきます。

その背景には、母・敬嬪朴氏が中宗から強い寵愛を受けていたことがありました。また、敬嬪朴氏が福城君を世子に擁立しようとしているのではないかと、臣下たちから警戒されていたことも大きく影響していたと考えられます。

実際に、『中宗実録』には敬嬪朴氏の動きを警戒する上疏が度々記録されています。

このような政治的緊張の中で発生したのが、後に「灼鼠の変」と呼ばれる事件でした。

灼鼠の変による失脚

1527年、東宮で焼いた鼠を使った呪詛の痕跡が発見される事件が起こりました。

これは、焼いた鼠に呪術的な細工を施し、世子を呪詛した事件と考えられており、「灼鼠の変」と呼ばれています。朝廷では、この事件を「福城君を世子に擁立しようとした敬嬪朴氏の企て」とみなし、敬嬪朴氏は廃位、福城君は爵号を剥奪されました。

しかし、1532年3月には、李宗翼が獄中から「灼鼠の変」は金禧が私欲のために起こしたものだと主張し、朝廷に波紋を呼んでいます。

此不過金禧生私、作妖之所致也
<中宗実録:中宗27年3月20日の条>

<訳>これは、ただ金禧が私情から妖しい行いをして引き起こしたことにすぎない。

この上疏により、金禧や金安老の関与を疑う見方も生まれました。しかし、『中宗実録』に金安老・金禧の関与が認められた記録は確認できません。一方で、敬嬪朴氏と福城君の厳重な処罰を求める上疏は収まらず、1533年、中宗は二人に賜死を命じています。

福城君と家族の名誉回復

1541年、世子(のちの仁宗)の上疏によって、娘・李雲環と姉妹である翁主たちの「王族としての身分回復」が認められました。(『中宗実録』中宗36年11月9日)しかし、福城君本人の身分回復については、『中宗実録』に明確な記録は確認されていません。

一方、『璿源續譜』には、仁宗の上疏によって中宗が「復爵と立後」を命じたと記されており、福城君家は養子を迎えて家系を継承することになりました。さらに、『璿源續譜』では、後に宣祖が王になる前に福城君の養子となり、即位後には第四王子・信城君(李珝)に福城君家を継がせたと伝えています。

こうした後代の継承関係からも、福城君も同時期に実質的な身分回復が認められていた可能性が高いと考えられます。

まとめ

福城君は中宗と敬嬪朴氏の間に生まれた第一王子であり、一時は世子候補として注目された人物でした。しかし、「灼鼠の変」によって母とともに失脚し、最終的には賜死という悲劇的な最期を迎えています。

その一方で、1541年には仁宗の上疏によって家族の王族籍が回復され、『璿源續譜』によれば、福城君も復位したと伝えられています。

福城君の生涯は、中宗時代の不安定な政局と激しい党争に翻弄された悲劇的な一生だったと言えるでしょう。

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