七日の王妃で有名な端敬王后が廃位されて、次の王妃になったのが章敬王后です。
章敬王后は坡平尹氏の出身ですが、坡平尹氏は多くの王妃を出した名門中の名門氏族でした。
章敬王后の家系図で分りやすくご紹介します。
章敬王后の家系図
章敬王后(チャンギョンワンフ)は多くの王妃を出した名門の坡平尹氏一族の出身です。
坡平は京畿道坡州の旧称で、始祖は高麗開国の功臣だった尹莘達です。
<章敬王后の家系図>
曽祖父の尹士昀は第7代王・世祖の王妃・貞熹王后の兄でした。
また、章敬王后の後に中宗の3番目の王妃となる文定王后(ムンジョンワンフ)も同じ一族の遠い親戚にあたります。
実は、燕山君の生母であり、成宗の王妃であった廃妃尹氏も坡平尹氏から分派した咸安尹氏の一族でした。
先の詳細版で、見にくい方は次の簡略版で確認して下さい。
<章敬王后の家系図(簡略版)>
また、成宗の3番目の正室である貞熹王后も坡平尹氏一族の出身です。
坡平尹氏一族出身の王妃の関係は次の通りです。
<坡平尹氏一族出身の王妃の関係>
第12代仁宗の側室であった淑嬪尹氏は文定王后の兄・尹元亮の娘です。
叔父は朝廷の実力者・朴元宗
章敬王后の母親の順天府夫人は中宗反正で燕山君を倒したときの中心人物・朴元宗の妹にあたります。
<章敬王后と朴元宗の関係>
中宗が即位すると、朴元宗は朝廷の重臣として重職を歴任していきます。
従って、朴元宗は章敬王后の叔父にあたり、章敬王后が王妃になれたのは朴元宗の力によるものと言われています。
【PR】スポンサーリンク
章敬王后はどんな王妃だったのか?
章敬王后は7歳の時に母親を亡くしています。
そのため、叔母さんの昇平府夫人朴氏(月山大君の妻)に引き取られて育てられました。
昇平府夫人は朴元宗の姉にあたります。
章敬王后は若くして亡くなったためか、どんな性格の女性だったのか全く記録は残されていません。
おそらく、礼儀正しい、物静かな女性だったのではないでしょうか。
章敬王后のプロフィール
諡号:淑慎明恵宣昭懿淑章敬王后
生年:1491年7月6日
没年:1515年3月2日
享年:25歳
埋葬:禧陵
配偶者:中宗
子女:孝恵公主、仁宗
父親:尹汝弼
母親:順天府夫人朴氏
王妃になった経緯
章敬王后は1506年に中宗反正で中宗が即位すると、中宗の側室として入宮します。
この時の身分は淑儀でした。
そして、1507年に最初の正室になる予定だった端敬王后が廃妃されると、次期王妃として冊封されます。
燕山君を廃位へと追い込んだ功労者の朴元宗が仕組んだことと考えられます。
朴元宗は姪の章敬王后を王妃として、朝廷での権力を掌握しようと考えたのです。
章敬王后の短い生涯
中宗の王妃となった章敬王后ですが、1515年に李峼(イ・ホ)を産むと、2ヶ月後に25歳の若さで亡くなってしまいます。
李峼(イ・ホ)は後の第12代国王の仁宗です。
章敬王后は中宗とは別に西三陵(ソサムヌン)の禧陵(ヒルン)に一人寂しく埋葬されています。
【PR】スポンサーリンク
章敬王后の家族
章敬王后は中宗との間に1男1女の2人の子供を生んでいます。
第11代国王・中宗 | |||
章敬王后 | 長男 | 李峼(イ・ホ) | 第12代国王の仁宗 |
長女 | 章敬王后 |
章敬王后の息子は第12代国王・仁宗
1544年、中宗が亡くなると、当時、世子であった章敬王后の息子が仁宗として即位しました。
しかし、中宗の晩年から政治に介入していた文定王后(ムンジョンワンフ)の力が強く、思うように政治ができなかったといいます。
それどころか、
息子を王にしたい文定王后は何度も仁宗の殺害を試みたとも言われています。
そのことが影響したのか、生まれつき病弱だった仁宗は即位後、たったの8ヶ月で亡くなってしまいます。
朝鮮王朝で最も短い在任期間でした。
章敬王后の娘
章敬王后の娘の孝恵公主(ヒョヘコンジュ)は最初の王女なので、中宗から大変可愛がられました。
1520年に金安老の次男の金禧と結婚します。
しかし、1531年、21歳で娘を出産したときに亡くなっています。
この時に生まれた娘の金善玉は、文定王后の弟である尹元老の息子・尹百源と結婚しています。
諱号:李玉荷(イ・オクカ)
生年:1511年5月18日
没年:1531年4月20日
実父:中宗
実母:章敬王后
義父:金安老
配偶者:延城尉金禧
まとめ
章敬王后(チャンギョンワンフ)の出身氏族・尹氏は多くの王妃を出した名門中の名門でした。
しかし、章敬王后は二人の子供を生むと25歳という若さで亡くなっています。
息子の仁宗も国王に即位しましたが、たったの8ヶ月で亡くなりました。
娘の孝恵公主も21歳で亡くなるなど、章敬王后の家族は薄幸の家族だったと言えるでしょう。