朝鮮王朝初の庶子の王である宣祖
ダメ王として歴史に刻まれた宣祖の逃避行動に迫ります。
宣祖の即位までの経緯
1552年11月11日、第11代国王・中宗と側室・昌嬪安氏の息子・徳興君の三男(河城君)として生まれました。
1567年、叔父の明宗が崩御し、直系の男子がいなかったため、16歳の河城君が第14代国王・宣祖として即位しました。このとき、宣祖は明宗と仁順王后の養子とされています。
即位当初は若く経験がなかったため、義母の仁順王后が垂簾聴政により政務を代行しました。
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壬辰倭乱での王の行動
壬辰倭乱は、日本の豊臣秀吉が明の征服を目的として起こした朝鮮侵攻です。
朝鮮王朝最大の国難・壬辰倭乱の勃発
1592年4月12日に、朝鮮に上陸した小西行長と宗義智の第一軍が釜山城を陥落させたのを皮切りに、加藤清正の第二軍、黒田長政の第三軍からなる全九軍16万の軍隊で朝鮮に侵攻しています。
戦争慣れした日本軍の勢いは凄まじく、宣祖が住む漢城にあっと言う間に迫りました。
表面上の長い平和と繰り返される内部党争により軍事力は大きく低下し、国防体制は弱体化していました。
国王の漢城からの避難
4月29日、宣祖は王妃、側室、光海君(次男)、信城君(四男)、定遠君(五男)と官僚を連れて避難を始めました。
このとき、民衆は逃げ出す王に嘆き悲しみ、石を投げるものさえいました。
また、暴徒化した民衆は、朝鮮が誇る景福宮、昌徳宮、昌慶宮の3つの宮殿に火を放ち、形曹、掌礼院に保管されていた奴婢文書を焼き捨てました。
危機的状況における光海君の活躍
危機を感じた宣祖は朝廷を2つに分けた分朝体制とし、光海君を世子に指名して分朝側を任せました。
そして、明に救援を求めます。
宣祖と官僚たちは平壌から義州まで避難、光海君は咸鏡道に避難しました。
<日本軍の侵攻路と宣祖の避難路>
このとき、分朝を任された光海君は散らばった官史と義兵を集めて日本軍に対抗、民衆に朝廷の健全さを知らせ、指導者としての実力を見せています。
平壌城の奪還はその際立った業績の一つです。
朝鮮の好戦と明軍の参戦
各地で立ち上がった義兵が日本軍の行く手を拒み、海上では李舜臣が日本軍に連戦連勝して、日本の補給路を断つ大活躍をしています。
そして、遂に要請を受けた明からも救援軍が朝鮮に入ってきました。
1593年1月、李如松を提督とする明軍は平壌に陣する小西行長の日本軍を破って、漢城に向けて南下、碧蹄館で日本軍に敗れまししたが、援軍に朝鮮軍は勢いを取り戻しました。
講和交渉の開始
補給路を絶たれた日本軍は兵糧も残り少なくなり、明との講和交渉入りました。
1593年4月に明と日本が講和交渉に合意しました。
講和条件により、臨海君と順和君の2王子は釈放されました。
また、日本軍は漢城から釜山周辺まで撤退、明軍は開城から遼東まで撤退しました。
これにより、宣祖は王都への復帰を果たしています。
丁酉倭乱の勃発
講和交渉の合意で戦争は収束するように思えました。
しかし、実は双方の講和担当者が穏便に終わらせようと、互いに相手が降伏したという偽りの報告をしていたのです。
1596年9月、秀吉が日本を従属国とみなした明の国書に激怒、明の使者を追い返し講和交渉が決裂します。
日本軍は再び、朝鮮への14万の兵力で侵攻を開始、朝鮮南部で朝鮮と明の連合軍が衝突しました。
1597年2月、丁酉倭乱の勃発です。
戦争の終結
1598年8月、秀吉の死により日本軍は撤退、戦争は終わりを告げました。
明軍も完全撤退しましたが、朝鮮全土は酷く荒廃し、多くの人が亡くなる悲劇的な結果となりました。
また、貴重な文化財が破壊、略奪され、多くの陶工(陶芸家)や朱子学者が日本に連れ去られています。
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宣祖の逝去
1606年、宣祖は待望の嫡子・永昌大君が得ることができました。
宣祖は永昌大君を世子にしたいと思っていましたが、世子を変えることなく亡くなっています。
1608年、宣祖が56歳で亡くなると、次男の光海君が第15代王として即位しました。
壬辰倭乱の逃避に見る王の責任
宣祖は日本軍の侵攻に対して、何の策を取ることもなく、一貫して自己保身のために逃避を繰り返しました。
光海君を世子として分朝したことも苦肉の策でした。
こうした民を見殺しにした王の行動には、王としての責任感は微塵も感じられません。
更に、曖昧な世子の選択は、光海君が聖君となる可能性を消し、大きな悲劇を生むことになったと考えます。
まとめ
壬辰倭乱において宣祖がとった行動は、王としての責任感を問う大きな試金石となりました。
戦乱の最中に避難を繰り返し、民を守る姿勢を示さなかった彼の判断は、国民の信頼を失い、朝鮮の王室の威厳を大きく損なう結果となりました。
一方で、光海君や李舜臣の危機的状況における活躍はリーダーとしてのあるべき姿を示しました。
宣祖の行動から学ぶことは、リーダーが危機において果たすべき責任の重さと、それに背を向けた場合の影響です。
これは、現代でも通じるリーダーの教訓といえます。