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韓明澮(ハン・ミョンフェ)の家系図と生涯【世祖の名参謀】

韓明澮(ハン・ミョンフェ)は世祖の名参謀として下級役人から朝廷の最高位まで上り詰めた人物です。

この記事では、韓明澮の家系図から人物像、家族関係、そして波乱の生涯を実録に基づいて詳しく解説します。

韓明澮(ハン・ミョンフェ)の家系図

韓明澮は、高麗の功臣・韓蘭(ハン・ラン)を始祖とする名門・清州韓氏の出身です。七代祖・韓康から曾祖父・韓脩に至るまで、いずれも「高麗史列伝」に名を残す有力者で、特に韓脩は学者・李穡(イ・セク)に匹敵する政治家でした。

祖父・韓尙質は芸文春秋館大学士、父・韓起は司憲府監察を務め、母は大提学・李逖の娘という高い家柄に生まれています。

史実では当代屈指の名門の出身でしたが、ドラマでは没落した一族として描かれることもあります。

韓明澮の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<韓明澮の家系図>

王室との強い関係

彼は二人の娘を王妃に嫁がせた国舅で、これは朝鮮王朝史上でも前例がありません。さらに、長男・韓堡(ハン・ボ)は孝寧大君の外孫娘と、次女は世宗の外孫・尹磻(ユン・パン)と結婚。韓氏家門は王室と強く結びつきました。

インス大妃との関係

韓明澮の娘がインス大妃の子・成宗の正妃となったことで、家庭的なつながりが生まれました。実録には直接的な密約や策略の記録はありませんが、自然な協力関係があった可能性は高いと推測されます。

韓明澮とインス大妃の関係

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<韓明澮とインス大妃の関係>

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韓明澮はどんな人物だったのか?

韓明澮(ハン・ミョンフェ)は朝鮮王朝の中でも屈指の権力を誇った人物でした。しかし、若い頃は各地を旅するのが好きな遊び人で、勉学も好まず、40歳になるまで何度も科挙に失敗しました。

成宗実録には次のように記されています。

明澮性寬弘, 度量深沈, 不拘小節, 持論務和平, 斷事擧綱領。
<成宗実録:成宗18年11月14日条>

<訳>韓明澮はおおらかで度量が深く、細事にこだわらず、意見を述べる際は和を重んじ、大局を見て物事を判断した。

韓明澮の政治的手腕を高く評価していることがわかります。

プロフィール

生年:1415年10月25日
没年:1487年11月14日(享年73歳)
字:子濬(チャジュン)
諡:忠成
号(雅号):狎鷗(アプグ)
本貫:清州韓氏
父:韓起(1393-1429)
母:貞敬夫人・驪州李氏(李逖の娘)
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韓明澮の家族

妻は閔大生(ミン・デセン)の娘であり、端宗妃・貞順王后の母である驪興府夫人 閔氏とはいとこ関係にあたります。正室のほかにも複数の側室がいたとされます。

嫡子・韓堡(ハン・ボ)は甲子士禍に巻き込まれるも処刑を免れ、子孫は中宗の代まで繁栄しました。

関係 名前 生年-没年 備考
正室 黄驪府夫人 不詳 閔大生の娘
長女 不詳 不詳 申澍の妻
次女 不詳 不詳 尹磻の妻
三女 章順王后 1445-1461 睿宗の正妃
四女 恭恵王后 1456-1474 成宗の正妃
長男 韓堡 1447-1522 琅城君
側室 多数※

※現在確認されている側室は4名
※申澍:申叔舟の息子、尹磻:尹思路の息子

韓明澮の生涯

下級役人からスタートした韓明澮の人生は世祖と出会ったことで大きく開花します。しかし、同時に波乱の人生を迎えることになりました。

下級官職からの出発

韓明澮(ハン・ミョンフェ)は名家に生まれながらも、何度も科拳に失敗。1452年、ついに科拳を諦めて文蔭(蔭職)によって景徳宮直に任命され、官界入りを果たしました。

文蔭:功臣・高官の子孫が試験なしで任官する制度
景徳宮直:王宮の雑務・庶務を担当した下級官職。景徳宮は敬德宮と記される場合もある

人生の転機|癸酉靖難

韓明澮(ハン・ミョンフェ)に人生の転機が訪れたのは、友人・權擥(クォン・ラム)に紹介された首陽大君(スヤンデグン)との出会いでした。

彼は癸酉靖難を主導。政敵・金宗瑞(キム・ジョンソ)一派を倒して、首陽大君を世祖として即位させることに成功します。これ以降、韓明澮は世祖の策士として功績を重ね、出世していきました。

世祖の絶対的な信頼を得る

韓明澮(ハン・ミョンフェ)は死六臣による端宗復位の計画を阻止し、世祖の命を救いました。世祖は彼を「わが張良(チャンリャン)だ」と称賛しています(成宗実録18年11月14日条)

<豆知識>張良(チャンリャン)とは
中国・前漢の皇帝・劉邦を知略で支えた名参謀。世祖は韓明澮を知略に優れた策士として最高級の評価をしました。

朝廷で権力を掌握

韓明澮(ハン・ミョンフェ)は二人の娘を王室に嫁がせ、世祖即位以降、睿宗・成宗初期に至るまで高官・要職を歴任。朝廷で絶大な権力を誇りました。

韓明澮の最期

成宗に嫁がせた末娘・恭惠王后(コンヘワンフ)が後継ぎを残さず亡くなり、成宗が成人するにつれて、韓明澮の権勢も次第に衰えていきました。最終的に韓明澮は自ら左議政を辞し、狎鷗亭を建て晩年を過ごしています。

1487年、73歳で亡くなり、現在は妻・閔氏とともに忠清南道天安市に埋葬されています。

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韓明澮の生涯年表

韓明澮(ハン・ミョンフェ)の主要な出来事を示します。

出来事
1415 韓起の息子として生まれる
1452 下級役人として景徳宮直に務める
1453 癸酉靖難。反乱を主導
1455 世祖が即位。右承旨となる
1456 死六臣による端宗復位運動を阻止する
1466 最高位の領議政となる
1467 李施愛の乱。謀反が疑われ逮捕される
1468 睿宗が即位。院相を務める
1469 成宗が即位
1487 73歳で逝去

後世の評価

実録では、知略に優れた人物として高く評価される一方で、晩年には金銭や女色を好み、広大な邸宅を構えて多くの妾を抱えるなど、その富と権勢の誇示が評価を下げる要因となりました。

また、後世になると「稀代の奸臣・逆賊」として非難され、靖難功臣・左翼功臣・翊戴功臣といった称号も、王位簒奪や無実の者を陥れた行為と結び付けられて否定的に語られています。

それでも、歴史ドラマの中では世祖を支えた名参謀、忠実な功臣として描かれることが多い人物です。

まとめ

韓明澮は名門・清州韓氏に生まれ、下級役人から世祖の名参謀へと登り詰めました。知略と政治手腕に優れる一方で、晩年には富と権勢に傾き、後世には「奸臣・逆賊」と評価されています。

しかし、その二面性こそ、歴史ドラマで魅力的な悪役として描かれる理由となっています。さらに、王室との強い結びつきや家庭的関係を知ることは、韓明澮の人物像を理解し、ドラマをより楽しむ重要な要素となります。

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