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百済の武王の家系図【百済再建に貢献するが、出生に謎多き王】

武王はドラマ「薯童謠 (ソドンヨ)」のモデルになった王です。

百済再建に貢献しましたが、出生、家族などプライベートなことは謎の王です。

王妃・善花公主の存在も疑問視されています。

武王はどんな王だったのか、家系図から詳しく調べてみました。

 

武王の家系図

武王は三国史記では、第29代法王の子と記録されていいますが、北史では第27代威徳王の子と記録されています。

<武王の家系図(三国史記)>

 

ドラマ「薯童謠 (ソドンヨ)」が採用した、北史による家系図です。

<武王の家系図(薯童謠が採用)>

 

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武王はどんな王だったのか?

武王の父親は「第29代王・法王である説」と「第27代王・威徳王である説」があります。

また、王妃である善花公主には「存在しない説」「新羅の王女である説」「新羅の貴族の娘である説」などがあり、未だ事実はわかっていません。

 

武王は政治、外交、軍事に優れ、第26代王・聖王以降、衰退した百済を再建した王として評価されています。

しかし、出生や王妃に関する資料は少なくプライベートでは謎多き人物です。

 

武王のプロフィール

<プロフィール>
武王(ムワン)
百済30代王
在位期間:600年 – 641年
諱:璋
生年:580年頃(詳細不明)
没年:641年
父:法王(威徳王の説あり)
母:不詳
王后:善花公主(実在しない説あり)
   沙宅氏
子女:義慈王

 

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武王の家族

武王の家族については、解明されていないことが多く、謎に包まれています。

関係 名前 生年-没年 備考
第29代王・法王 不詳-600 威徳王の説あり
不詳 不詳
王妃 善花公主 不詳 新羅王・真平王の3女
嫡男 義慈王 599-660 第31代国王
王妃 沙宅王后 不詳 沙宅積徳の娘
王子 翹岐 不詳

沙宅王后は百済の貴族・沙宅積徳の娘で、4人の娘がいたともいわれています。

また、息子の翹岐は義慈王の弟の王子との説もあります。

 

ドラマ「薯童謠」のモチーフになった薯童説話

薯童説話は「三国遺事」に記載されている百済第30代王・武王についての逸話です。

「善花(ソンファ)姫は人知れず恋をし、夜な夜な薯童(ソドン)殿に抱かれる」

 

王位争いから宮廷外に追放された百済の王子(武王)が、芋売りをして生活していました。

ある日、王子が、新羅の美しい王女・善花姫と出会い、恋をしました。

王子は善花姫を宮殿から出すため、歌を新羅の子どもたちの間に広めました。

薯童(ソドン)とは、、芋を売る子供という意味です。

この歌を聞いた新羅の第26代王・真平王は善花姫を宮殿から追放してしまいました。

王子の狙い通りに追い出された善花姫は王子と出会い、恋をして結婚をするという逸話です。

 

武王の歴史的な事実というよりは、「馬鹿なオンダルとピョンガン王女」の逸話と同じように、ほぼフィクションと思われます。

事実、多くの時代の言い伝えが混在しているようで、多数の矛盾点が指摘されています。

 

王妃・善花公主は実在したのか?

善花公主は、新羅の第26代王・真平王の三女で、姉には善徳女王と天明公主がいたとされています。

しかし、善花公主の存在自体を疑問視する人もいます。

 

また、善花公主は新羅の王女ではなく、貴族の娘だっととする説もあります。

詳しくは>>善花公主の家系図【ケベクのソンファ王妃は善徳女王の妹?】 をご覧下さい。

 

武王の生涯

武王の正確な誕生日は分かっていません。

580年頃と推定されます。

 

また、三国史記では、第29代法王の子と記録されていいますが、北史では第27代威徳王の子と記録されています。

600年、法王が在位1年で逝去、武王が第30代王として即位しました。

 

新羅の侵略に苦戦する

602年8月、新羅に出兵して、阿莫山城を攻めましたが、新羅の真平王が派遣した将兵に大敗しました。

また、新羅が小陀、畏石、泉山、甕岑に4つの城を築き、百済の国境を攻めてきました。

そこで、解讎を派遣して4城を攻めるが敗れています。

605年8月には、新羅が東鄙(東部)に侵略してきました。

 

隋に力で高句麗を牽制

百済のもう一つの不安が高句麗の侵攻でした。

そこで、607年3月に、燕文進と佐平を朝貢使として隋に派遣しています。

目的は隋に臣下の意を表して、高句麗征伐の要請をすることでした。

 

隋の煬帝は、これを許可、高句麗の動静を伺うよう命じています。

高句麗は隋にとっても目の上のたんこぶだったのです。

 

5月、高句麗が松山城を攻めてきました。

陥落は逃れましたが、石頭城が襲われ男女3000人が捕虜になっています。

 

この後も、百済は隋に度々、遣使を派遣して朝貢し、臣下の意を表しています。

隋の力で高句麗を牽制したかったのです。

 

隋の高句麗討伐を利用

611年2月、隋の煬帝が高句麗の討伐を命じました。

これを聞いた武王は国智牟を派遣し、出征の期日を尋ね、支援の意思を見せます。

煬帝は喜び、尚書起部郞の席律を百済に派遣して高句麗の討伐について謀議させています。

 

しかし、武王は裏では、高句麗にも内通していたと言われています。

612年1月、隋の煬帝が高句麗に兵を派遣し、高句麗討伐が始まりました。

 

これ以降、614年までの間、隋は3回の大遠征を敢行、高句麗に侵攻しています。

しかし、この高句麗討伐は大失敗となり、兵は逃亡、民心は離れ、隋の煬帝は離宮に逃避、自滅していきます。

こうして、618年、隋は滅亡、唐が建国されました。

 

新羅への攻撃

隋が高句麗を攻撃しているとき、百済は新羅への反撃を始めます。

新羅への攻撃は在位から亡くなるまで、40年近くに及びました。

三国史記に記録されている主要な戦いは次のとおりです。

<百済の主な戦い>

主な戦い
611年 10月、新羅の椵岑城を攻め、城主・讚德を殺害、陥落させる
616年 母山城を攻撃する
618年 (隋が滅亡、唐が建国される)
623年 10月、勒弩県を攻撃する
624年 10月、新羅の6つの城、速含、櫻岑、歧岑、烽岑、旗懸、冗柵を攻め落とす
626年 (唐の高祖(李淵)が三国の和睦をすすめる)
8月、王在城を攻め、城主・東所を殺害する
627年 7月、新羅の西部2城を陥落させる
(新羅の真平王が唐に使者を送って太宗に仲裁を求める)
628年 2月、椵峯城を攻める
632年 (1月、新羅の真平王が逝去。善徳女王が第27代王として即位)
7月、新羅に兵を出して攻め込む
633年 8月、西谷城を陥落させる
636年 5月、独山城を攻撃するが、猛反撃を受けて撤退する

 

武王の外交手腕

武王は戦だけでなく、外交でも優れた能力を発揮しました。

隋に高句麗の牽制させる

まずは、宿敵新羅の討伐に集中するために、隋に高句麗の牽制をさせました。

607年3月に、燕文進と佐平を朝貢使として隋に派遣、高句麗征伐の要請をしています。

隋の煬帝は、これを許可、高句麗の動静を伺うよう命じています。

これ以降も、度々、隋に遣使を派遣して朝貢し、臣下の意を表しています。

 

611年2月、隋の煬帝が高句麗を討伐することを聞きつけると、武王は国智牟を派遣して出征の期日を尋ね、支援の意思を示しました。

これに、煬帝は喜び、手厚く賞を与えて、尚書起部郞の席律を派遣して、武王と高句麗討伐の謀議させています。

 

しかし、実際には武王は高句麗にも内通していたと言われています。

隋は、612年~614年の間に何度も高句麗に侵攻、高句麗の勢力が百済に向く余裕はありませんでした。

 

唐建国への対応

618年9月、高句麗の嬰陽王が逝去、栄留王が即位しています。

また、隋の煬帝が殺害され、隋が滅びるて、唐が建国、李淵が初代皇帝になっています。

 

621年10月、武王は唐に遣使を派遣し、果下馬を献上、引き続き臣下の意を表します。

624年、唐の高祖(李淵)は使臣を遣わし、武王を「帯方郡王百済王」に冊封しました。

 

626年には、唐に光明鎧を献上し、高句麗の塞路を訴えました。

その結果、唐の高祖(李淵)が三国(高句麗、新羅、百済)に和睦するよう諭しています。

 

また、627年7月、新羅の西部2城を奪い、更に新羅に奪われた土地を奪回しようとすると、新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求めました。

8月、武王は甥の鬼室福信を唐に派遣して、表面上は仲裁を受け入れています。

 

しかし、その後も新羅への攻撃は緩めることなく、紛争は続きました。

632年1月、新羅の真平王が逝去、善徳女王が第27代王として即位しました。

武王はさっそく、7月に兵を出して新羅に攻め込んでいます。

 

武王の最後

新羅を果敢に攻めた武王でしたが、新羅を倒すことはできす、641年3月に亡くなりました。

唐に使者を派遣して、武王の死を告げたところ、太宗は哭泣(こっきゅう)の儀礼を以て、武王の死を嘆き悲しんだといいます。

武王には光禄大夫の爵号が追贈されました。

 

武王のお墓は全羅北道益山市にある双陵(サンヌン)です。

双陵は、2基の墓が南北に約150メートルの間を空けて位置しており、大きい方を「大王墓」、小さい方を「小王墓」と呼んでいます。

「小王墓」は、王妃であった善花公主のお墓と考えられています。

 

まとめ

武王の出生や王妃に関しては、謎が多い人物でした。

特に即位前の記録は少なく、武王がどんな経緯で王に即位したのかも分かっていません。

しかし、王位についてからは、聖王以降、衰退した百済を立て直した王として高く評価されています。

それは、新羅を果敢に攻めた武王の戦歴を見ても明らかです。

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