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朝鮮王朝滅亡の理由【518年の歴史を持つ朝鮮王朝の最後】

韓国時代劇で最も多く取り上げられるのが朝鮮王朝時代です。

500年以上続いた朝鮮王朝はどのように終わったのか。

朝鮮王朝滅亡の理由を詳しくご紹介します。

 

朝鮮王朝が滅亡した理由

朝鮮王朝の滅亡には、次の内部要因、制度的要因、外部要因が重なって発生したと考えられます。

<朝鮮王朝滅亡の3つの理由>
1.王権と朝廷の国家基盤の弱体化
2.封建制度の崩壊と農民の反乱
3.列強による外圧と侵略

 

王権と朝廷の国家基盤の弱体化

正祖の時代までは、少なくても王様には外部から操られない権力を保持していました。

しかし、純祖以降は、王が幼かったり、継承者がいなかったことで外戚が権力を握り、朝廷を掌握していきました。

 

その結果、安東金氏、驪興閔氏といった一部の氏族が政治を専横、官職は売買され朝廷は腐敗化、農民は課税により、増々、苦しい生活を余儀なくされていきました。

こうして、朝鮮王朝は内部から弱体化していきました。

 

封建制度の崩壊と農民の反乱

農民は与えられた土地で農耕をして、税を納め生活していました。

しかし、贅沢を尽く官僚が多くなるとお金が不足、定額以上の違法な税を農民から取り立て始めました。

架空の耕地からの徴収や乳児からの徴収など目に余る暴政が行われました。

 

その結果、農民は土地を手放し流民となるものが増え、更には、各地域で農民の反乱が多発していきました。

純宗が即位したから1800年から高宗までの時代に大小40回を超える農民反乱が勃発しています。

特に、影響の大きかった1811年の平安道農民戦争(洪景来の乱)、1862年の壬戌農民蜂起(晋州民乱)、1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)は、19世紀の三大民乱といわれています。

 

列強国による外圧と侵略

世界は既に、門戸を開放した貿易の時代に入っていました。

朝鮮にもアメリカ船が近郊に現れ、貿易を迫ってきていました。

 

また、閉鎖国であった朝鮮には、隣接する中国・日本・ロシアが朝鮮を侵略しようと狙っていました。

こうした外圧が強くなる一方、朝廷では鎖国政策が取られ、外的に対する備えも国内だけの調達に頼っていました。

まさに、竹槍に鉄砲の如く「時代遅れの防衛力」でした。

 

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朝鮮王朝の最後

1393年、李成桂により建国された朝鮮王朝は、1910年の日本による韓国併合で消滅しました。

517年の期間に及ぶ王朝でした。

 

韓国併合とは、「韓国併合ニ関スル条約」に基づき韓国が日本の支配下に置かれたことを示します。

つまり、植民地化されたことで朝鮮王朝は終焉を迎えました。

<豆知識>韓国併合ニ関スル条約とは
1910年8月22日に漢城府(現ソウル特別市)で寺内正毅・統監と李完用・総理が調印した条約です。「韓国皇帝が大韓帝国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」と規定していました。この規定は1965年に締結された日本と大韓民国との条約(日韓基本条約)で「もはや無効である」ことが確認されるまで続きました。

なお、韓国政府は、韓日併合条約は日本の侵略主義によるもので、不義・不当な条約は当初から違法で無効だと主張していました。

 

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朝鮮王朝没落までの道のり

絶大な王権により確立された朝鮮王朝は官僚たちの派閥争いの場となり、朝廷では政争が繰り広げられました。

 

清による属国化

そして、16世紀末頃から内部闘争を続ける朝鮮に日本や清などの外敵が侵略、国は次第に疲弊していきました。

1637年、遂に朝鮮は清に降伏して、清の属国となります。

 

国内を腐敗させた勢道政治

英祖、正祖が国の立て直しに死力しますが、王一人の力では限界がありました。

正祖の死後、外戚が政治を独占する勢道政治が行われ、朝鮮王朝は坂道を転げ落ちるように衰退していきます。

朝廷が一部の氏族に独占され、暴政がまかり通り朝廷が腐敗していきました。

農民の生活はますます苦しくなり、我慢の限界を超えた農民たちの反乱が各地で勃発し始めました。

 

日本による支配

もはや、内部の力ではどうにもならない王朝は周辺国を巻き込んだ政争となります。

一度は清から独立しましたが、代わって日本からの支配を受けるようになりました。

内部干渉をしなかった清と違い、日本は内政まで干渉、その結果、朝鮮王朝は最後を迎えることになります。

 

朝鮮王朝最後の王

朝鮮王朝最後の王は、朝鮮王朝建国から数えて第27代目の国王の純宗です。

第26代国王の高宗と明成皇后の長男として生まれました。

 

純宗は二人の妃と結婚しましたが、子供はできませんでした。

最初の妃は世子の時に結婚した純明孝皇后です。

2番目の妃は純明孝皇后が亡くなった後に結婚した純貞孝皇后です。

 

1907年に高宗が譲位して、純宗が皇帝に就いたときは、既に日本の支配下であり、名ばかりの皇帝でした。

1910年、韓国が日本に併合されると、純宗は王に冊立され、「李王」と称されました。

 

独立国の皇帝から従属国の王に降格されたのです。

李王は京城府の昌徳宮で平凡に暮らし、1926年4月25日、53歳で亡くなっています。

 

王族の末路

高宗には、幼くして亡くなった子供も含めて、7男3女の子供がいました。

<高宗の子供たち>

名前 生年-没年 母親 備考
完親王(李墡) 1868-1880 永保堂
貴人李氏
13歳で逝去
翁主 1871-不詳 早世
大君 1871-1871 明成皇后 早世
公主 1873-1873 早世
純宗(李坧) 1874-1926 第2代皇帝
義親王(李堈) 1877-1955 貴人張氏 非行、悪行
英親王(李垠) 1897-1970 純献皇貴妃 最後の皇太子
皇子(李堣) 1915-1916 宝賢堂
貴人鄭氏
早世
徳恵翁主 1912-1989 福寧堂
貴人梁氏
名は李德惠
皇子(李堉) 1914-1916 光華堂
貴人李氏
早世
皇女(李文鎔) 1900-1987 宮女廉氏

 

王位継承者から外された義親王

義親王は反日運動に深く関与、1919年には上海に渡り、現地の独立運動に参加しようとしました。

しかし、中国に阻まれて強制帰国させられています。

 

義親王の生活は乱れ、普段から乱行が酷かったと言われています。

そのため、長子でありながら王位継承者からは外されていました。

多くの妾から生まれた子供も多数存在し、高宗の子孫の多くは義親王の子孫だといいます。

 

王位継承者・英親王の悲劇

義親王は生まれつき品行が良くなかったので、後継者として選ばれたのは英親王(李垠)でした。

英親王(李垠)は朝鮮王朝最後の皇太子です。

 

英親王は12歳から日本での生活を強制され、帝国陸軍に所属、日本の皇族の娘であった梨本宮方子と結婚しています。

梨本宮方子について詳しくは>>梨本宮方子の家系図【朝鮮王朝最後の皇太子の妃】をご覧下さい。

 

英親王(李垠)は軍人として太平洋戦争にも参加しています。

戦後、夫婦は王族の地位を剥奪され、一般平民に降格、日本政府からの支給も途絶え苦しい生活を送ることになります。

一時は留学した息子とアメリカで生活しますが、1959年3月、英親王(李垠)が脳血栓に倒れ、歩行困難になると再び、日本に戻りました。

 

1962年に、韓国籍を回復すると、妻・方子は韓国への帰国を決意します。

しかし、1963年に韓国に帰国したときには、英親王(李垠)は寝たきり状態で、1970年にソウルで亡くなりました。

 

悲劇的な運命だった徳恵翁主

高宗の末娘だった徳恵翁主の運命は悲劇的でした。

徳恵翁主は強制的に日本に留学させられ、英語教授をしていた日本人(伯爵の宗武志)と結婚させられます。

 

しかし、結婚生活は破綻、一人娘も亡くし、徳恵翁主は重度の精神障害を患っていきました。

1950年、松沢病院に入院していた徳恵翁主を韓国人新聞記者の金乙漢が発見します。

 

金乙漢は悲惨な徳恵翁主の状況を韓国に紹介、帰国運動を始めます。

その結果、徳恵翁主は1962年にやっと帰国、1989年に高宗の最後の子供として韓国の地で亡くなっています。

徳恵翁主の生涯は「ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女」で映画化されています。

 

まとめ

朝鮮王朝は日本による植民地化で500年以上の長い歴史を閉じました。

500年の歴史の中には数々のドラマがあり、多くの韓国時代劇でも扱われています。

一時は永華を極めた王朝も次第に、外戚による朝廷の独占により腐敗し、転げ落ちるように衰退していきました。

王族の悲惨な最後は「盛者必衰の理」を象徴しているかのようです。

 

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