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イニョン王妃は実在した?【生存中に復位した唯一の王妃】

ドラマ「トンイ」に登場するイニョン王妃(仁顕王后)は、第19代王・粛宗の正室であり、朝鮮王朝史上ただ一人、生存中に復位した実在の王妃です。

本記事では、政治の渦に翻弄され、ドラマを上回る波乱の人生を歩んだ彼女の生涯を詳しく紹介します。

史実のイニョン王妃とは?

トンイに登場するイニョン王妃は、トンイを命がけで助ける健気な王妃でしたが、史実のイニョン王妃は政争に翻弄され、粛宗の寵愛をあまり受けずに苦難の人生を送りました。

トンイに登場するイニョン王妃の画像

<トンイに登場するイニョン王妃>

1667年、彼女は閔維重の娘として生まれ、14歳で粛宗の正室となります。礼儀正しく、徳があり、民からも慕われました。

詳しくはこちら>>仁顕王后の家系図【太宗が粛清した驪興閔氏の出自】

仁顕王后の史実年表(簡易)

出来事
1667年 閔維重の娘として生まれる
1681年 粛宗の正室に冊封される
1689年 廃位され宮廷を追われる(己巳換局)
1694年 復位(甲戌換局)
1701年 逝去(享年35)
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イニョン王妃が廃位された背景|「己巳換局」とは?

1689年に起きた「己巳換局」は朝鮮王朝の政権が西人派から南人派へ交代した政変です。このとき、粛宗は張禧嬪の息子を元子にしようとしましたが、西人派が強く反発。これに反対した首謀者としてイニョン王妃が廃位され、庶民へ降格。代わって張禧嬪が王妃となりました。

トンイに登場する張禧嬪の画像

<トンイに登場する張禧嬪>

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「庚戌換局」で復位|朝鮮史上唯一の生存中に復位した王妃

1694年の「庚戌換局」は、政権が南人派から西人派に再び移る政変でした。

南人派の勢力拡大を警戒した粛宗は、張禧嬪を廃位し、イニョン王妃を王妃に復帰させました。これにより、彼女は生存中に復位した唯一の王妃として歴史に名を残します。

己巳換局と庚戌換局の解説

換局は、政権を握る勢力が入れ替わることを意味し、具体的には、ある党派が失脚し、別の党派が政権を握ることを指します。粛宗は王権強化のために2回の換局を行い、特定の党派の影響力が強くなることを防ぎました。

「己巳換局」とは、1689年に発生した政治的政変で、西人派が権力の座から追われ、南人派が勢力を拡大した事件を指します。この政変により、イニョン王妃は廃位され庶民に落とされました。

一方、「庚戌換局」は1694年に起きた反対の政変で、南人派が弱まり、西人派が再び力を持つこととなりました。この時、イニョン王妃は復位を果たします。

呪詛事件と張禧嬪の死罪|宮廷の闇と政治的駆け引き

1701年、イニョン王妃の寝所から呪詛の人形や呪文が発見される事件が起きます。粛宗実録にも記載があり、この事件が原因で張禧嬪は自害を命じられ死罪となりました。

上曰: “使之自盡, 非謂攸司之刑也。 雖不令政院受傳旨, 而豈無可處之道乎? 只出傳旨於朝報。”<引用元:粛宗実録1701年10月11日より抜粋>

<要約>王が言った「自害させるのは刑罰ではない。たとえ政院に伝令を出さなくても処理できる。命令を朝廷で伝えるだけだ。」

「自害させるのは刑罰ではない」という王の発言は、張禧嬪の処遇を「死刑」として公にすることなく、本人の意思で命を絶つ形を選んだことを示しています。自害であれば正式な手順は必要なく、王命で処理できるとも。

このように、張禧嬪は呪詛事件の疑いで死罪に処されましたが、公開の処刑ではなく、本人に自害を命じる形がとられました。これは宮廷内の権力バランスを保つための政治的な配慮と考えられています。

張禧嬪の詳細はこちら>>張禧嬪の家系図【朝鮮王朝で唯一、中人出身で王妃なった女性】

廃位中に暮らした感古堂とは?

イニョン王妃は廃位期間中、実家の感古堂で5年間暮らしました。感古堂は漢陽(現在のソウル)から驪州の明成皇后記念館近くに移設された由緒ある屋敷で、英祖が命名。明成皇后もここで暮らした歴史があります。

<イニョン王妃が暮らした感古堂の外観 >

<イニョン王妃が暮らした感古堂の外観 >

イニョン王妃の晩年と死去|波乱の人生の終焉

イニョン王妃は長年の心労や張禧嬪との確執が重なり、34歳で亡くなってしまいます。廃位中は恩恵を一切受けられず、質素を極めた生活を送っていたとされます。

実際、宮殿に戻ったイニョン王妃は体調は回復せず亡くなるまでの2年間は闘病生活だったといいます。「承政院日記」には病状悪化が淡々と記され、実録には逝去したときの状況が記録されています。

辛亥/二更、中宮昇遐于慶德宮。(略) 內後自昨夕, 咳嗽喘促, 證勢十分危重。須以此意啓達。<引用元:粛宗実録1680年10月26日より抜粋>

<訳>夜10時頃、中宮(仁顕王后)が慶徳宮で逝去した。(略)中宮は昨夜から咳と息切れがあり、症状は極めて重篤だった。

イニョン王妃は、京畿道高陽市の西五陵にある明陵に粛宗と共に葬られています。生前は粛宗の寵愛を受けることは少なく、党派争いの渦中で波乱の生涯を送りましたが、死後は粛宗と並んで眠り、ようやく安息を得ました。

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史実とドラマの違い|廃位の理由と実際の暮らし

ドラマではイニョン王妃は張禧嬪とその兄・張希載の陰謀で廃位されています。粛宗の母・明聖王后を毒殺した罪に問われますが、これは史実とは異なります。

張禧嬪が宮廷に戻ったのは明聖王后の死後であり、このような事件は起こりえません。明聖王后の死因は、粛宗の天然痘回復を願って断食し、冷水を浴びたことによる体調悪化でした。

また、廃位後のイニョン王妃は実家の感古堂で暮らし、ドラマのように尚宮と狭い屋敷で生活していたわけではありませんでした。

まとめ

イニョン王妃は、廃位から復位を果たした唯一の王妃であり、その生涯は派閥政治と宮廷の人間関係に翻弄されました。しかし、彼女は心が優しく、民からも慕われる人徳のある存在でした。

史跡や史料を辿ることで、ドラマ「トンイ」とは異なる真実の姿が浮かび上がります。ドラマでのイニョン王妃の言葉「心が痛む」は史実でのイニョン王妃の心の内を表した言葉のようです。

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