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トンイの兄は実在した|史実でたどる崔垕の実像と生涯

トンイ(淑嬪崔氏)の兄は実在していました。兄・崔垕(チェフ)はどんな人物だったのか?

この記事では、史料に基づき崔垕の実像、家族構成、生涯について詳しく解説します。

実在したトンイの兄・崔垕とは?

トンイのモデルとなった淑嬪崔氏には兄・崔垕(チェフ)が実在していました。ドラマで、兄は序盤で殺害され命を落としますが、史実の崔垕(チェ・フ)は75歳まで長寿を全うしました。

崔垕は父・崔孝元と母・洪氏(洪継南の娘)との間に長男として生まれました。通政大夫だった安俊榮の娘・安氏と結婚。1男1女の子供をもうけています。

<崔垕のプロフィール>
崔垕(チェフ)
生年:1657年
没年:1731年
享年:75歳

このように、ドラマとは異なり、崔垕は家庭を築き、安定した生涯を送っていたことが分かります。

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英祖による厚遇と追贈

史実の崔垕(チェ・フ)は英祖から大事にされました。死後、英祖より高官の官職を追贈されたことが英祖実録に記録されています。

命特贈贈參議崔垕二品職, 垕於和敬淑嬪爲同氣也。
<英祖実録1765年11月14日条より>

<訳>崔垕(チェ・フ)に対して参議(二品官職)を特別に追贈するよう命じた。崔垕は和敬淑嬪(淑嬪崔氏)と同じ家系の出自である

王の母の親族ということで、崔垕の家族が厚遇されていたことは確かです。崔垕の子や孫も正祖に徴用されたとされます。

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崔垕の家族|両親と兄弟姉妹

崔垕の父は万戸を務めた崔孝元です。崔垕は16歳のときに父を亡くし、2年後の18歳のときに母を亡くしています。このとき、トンイ(淑嬪崔氏)はまだ5歳でした。

崔垕の兄弟姉妹

崔垕には2人の姉妹がいました。長女の崔氏は府使(地方官)の徐專に嫁ぎ、娘を一人もうけています。次女は後に粛宗の側室となる淑嬪崔氏(トンイ)です。

<崔垕の家族>

関係 名前 生年-没年 備考
崔孝元 1638-1672
洪氏 1639-1673 南陽洪氏、洪継南の娘
長女 崔氏 不詳 府使の徐專の妻、1女
次女 淑嬪崔氏 1670-1718 粛宗の側室、トンイ
長男 崔垕 1657-1731

崔垕の妻子

崔垕は妻の安氏との間に、1男1女をもうけています。

息子の崔壽崗(チェ・スガン)は武科に及第し、万戸の職を務めました。金熙潤の娘・金氏を妻に迎え、二人の息子をもうけています。一方、娘は趙泰恒(チョ・テヒョン)に嫁ぎ、1男3女に恵まれました。

<妻と子孫関係>

関係 (孫) 名前 生年-没年 備考
順興安氏 不詳 安俊榮の娘
長男 崔壽崗 不詳-1749 妻は金熙潤の娘
長男 崔鎭海 不詳 妻は斗杓の娘
次男 崔鎭衡 不詳 妻は安瑞莢の娘
長女 崔氏 不詳 趙泰恒の妻
長男 趙慶祥 不詳 武科合格、折衝
長女 趙氏 不詳 李世寬に妻
次女 趙氏 不詳 權繼重の妻
三女 趙氏 不詳 金胤宗の妻

崔垕の子孫は後に英祖・正祖にも仕えたと伝わり、王室とのつながりを保ち続けました。

崔垕の家系図

崔垕は海州崔氏の出身とされています。しかし、崔垕や父・崔孝元、祖父・崔泰逸らの名は現存する族譜には見あたらず、父の墓碑銘にのみその家系が刻まれています。

そのため、「崔垕が本当に海州崔氏の直系だったのか」については、解釈に諸説があります。

崔垕の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<崔垕の家系図>

祖父の崔泰逸は儒生として科挙を志した人物とされます。父の崔孝元は下級役人から昇進し、死後に英祖から「大匡輔國崇祿大夫・議政府領議政」などの官職を追贈されています。

これらの事実は崔孝元の墓碑銘に刻まれており、王の母の親族である崔家が王室から高く評価されていたことを裏付けます。

まとめ

トンイ(淑嬪崔氏)の兄・崔垕は、実在の人物でした。史料によれば、75歳まで長寿を全うし、生涯にわたり英祖から厚遇を受けたとされています。

ドラマ「トンイ」では悲劇の兄として描かれましたが、史実の崔垕は堅実に家を守り、王朝から信頼を得た人物でした。

彼の子孫は正祖の代まで官職に就いており、淑嬪崔氏の家が王室と関わりを持ち続けたことがうかがえます。

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