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トンイのお墓はどこにあるのか?【一人で眠る広大な昭寧園】

ドラマの最後に出てきたトンイのお墓ですが、どこにあるのでしょうか?

王様と仲良く眠っているのでしょうか?

トンイの最終回を見て興味を持った私は、トンイのお墓について詳しく調べてみました。

 

トンイの墓はどこにあるの

トンイの墓はソウルの北、京畿道 坡州(パジュ)にある昭寧園(ソリョンウォン)に埋葬されています。

 

トンイが一人で眠る広大な昭寧園

昭寧園はソウル中心部から20kmも離れた坡州市にあります。

粛宗が埋葬されている西五陵とは、ずいぶんと離れた場所にあります。

王様の粛宗と一緒ではありませんが、これは、王様や王妃と側室は同じお墓には埋葬されないためでした。

<昭寧園、西五陵、東九陵の位置>

トンイ(淑嬪崔氏)は、西五陵からは離れた昭寧園に単独の墓として埋葬されています。

当時、王室のお墓は都(ソウル中心部)から100里(40km)以内に作るように決められていましたから、トンイのお墓が特別遠方に作られた訳ではないようです。

風水学的に特に静かな景観の優れた場所が選ばれたと思います。

<トンイが眠る昭寧園>

広大な敷地の中に静かに眠っているようです。

残念ながら、現在は一般公開されていないので見ることはできません。

<トンイのお墓>

 

王の生母としてのお墓に

トンイ(淑嬪崔氏)が亡くなったときには、まだクムが王様ではなかったので、今のような立派なお墓ではなかったと思われます。

1724年にクムが国王・英祖になり、トンイのお墓も国王の生母として今のような立派なお墓に昇格しました。

 

但し、園(ウォン)に昇格したのは、1753年の英祖が60歳、王として地位がシッカリと確立したときです。

英祖は母の身分が貧しく低かったことを気にして大変苦労したと言われています。

王になったからといって、簡単に母のお墓を昇格できなかったのでしょう。

<豆知識>王室の墓の名前
王と王妃の墓は陵(ヌン)と呼ばれ、世子や世子嬪(世子の妻)と王の親族の墓は園(ウォン)と呼ばれています。トンイのお墓は王の母になってから、昭寧園(ソリョンウォン)に昇格しました。また、イサンとソンヨンの息子の文孝世子(ムニョセジャ)のお墓は孝昌園(ヒョチャンウォン)と呼ばれています。それ以外の王族のお墓は墓(ミョ)です。例えば、イサンの側室だったソンヨンのお墓は墓(ミョ)です。また、廃位された王である燕山君や光海君のお墓も陵ではなく墓(ミョ)と呼ばれています。

 

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トンイ最終回(第60話)に出てきたお墓が昭寧園

トンイの最終回に王になった英祖がチャ・チョンスと一緒にトンイのお墓参りをする場面がでてきます。

英祖が王としての決意を示す場面です。

このときに出てくるお墓が昭寧園にある実際に淑嬪崔氏が埋葬されているお墓です。

 

今では、一般公開されていないので動画で見ることができるのはこの場面ということになります。

トンイのお墓を動画で見たい人は、トンイの第60話を見て下さいね。

 

ところで、トンイ(淑嬪崔氏)は何故、亡くなったのでしょうか?

詳しくはこちら>>トンイ(淑嬪崔氏)の死因は何?【晩年は病気がち寂しい最後】

 

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王様と王妃が眠る西五陵

西五陵には粛宗が2番めの王妃である仁顕王后と並んで埋葬されています。

3番目の王妃である仁元王后は粛宗の左200m離れたところに単陵として埋葬されています。

<王と王妃が眠る西五陵>

また、粛宗の最初の王妃である仁敬王后は単独の墓として、西五陵の一番高い場所に埋葬されています。

 

粛宗が仁顕王后を隣に選んだ理由

粛宗が2番めの王妃である仁顕王后を自分のお墓の隣に選んだ理由は、生前の仁顕王后へのせめてもの罪滅ぼしと思われます。

生前、粛宗は南人派と西人派の権力闘争の中で、仁顕王后を冷遇し王妃を廃位してしまいます。

 

その後、仁顕王后は復帰しますが、廃位中の貧困生活が原因で病気が悪化して亡くなってしまいます。

享年34歳の若さでした。

粛宗の意思とは別の政局により、悲運の生涯を送った仁顕王后を粛宗は心の底から可哀想に思い、後悔したのではないでしょうか。

 

張禧嬪が西五陵に埋葬されている理由

張禧嬪(チャン・ヒビン)の墓は、最初は楊州(ヤンジュ)に草葬(遺体を藁などで覆い一時的に埋葬すること)されていました。

しかし、その場所が不吉という理由で1719年に粛宗は、ソウル中心部から南東に20km程離れた京畿道広州(クァンジュ)に移葬させました。

その後、1969年に土地整備を理由に西五陵に移葬されました。

 

但し、粛宗と仁顕王后の墓である明陵からは遠い場所に埋葬されています。

お墓の名前も王妃の陵(ヌン)ではなく、墓(ミョ)の大嬪墓(デビンミョ)と呼ばれています。

<西五陵に移葬された張禧嬪の墓>

ちなみに、張禧嬪の息子である景宗は夫妻で、ソウルにある懿陵(ウィルン)に眠っています。

せめて、息子のそばに眠らせてあげてもいいと思いますが、観光としての発展を考えてのことでしょう。

今や、張禧嬪のお墓は西五陵における人気スポットになっています。

 

トンイの子供のお墓

ところで、トンイには英祖以外に何人の子供がいたでしょうか?

 

トンイの子供たち

実はトンイは男の子を3人生んでいます。
・長男(1693年 名は永壽、早世)
・次男:英祖(第21代王)
・三男(1698年 早世)

長男は末永く生きるようにと永壽(ヨンス)と名付けられますが、麻疹にかかって亡くなってしまいます。

永壽(ヨンス)はドラマにも登場しています。

 

次男は後の第21代王・英祖となるクムです。

永壽(ヨンス)が亡くなった翌年に生まれ、ドラマの後半はクムを中心に進んでいきます。

 

実は、史実では淑嬪崔氏はクムを生んだ4年後に、3番目となる男の子を生んでいます。

しかし、この子は名前を付けられる間もなく亡くなってしまいました。

残念ながら、亡くなった子どもたちのお墓は記録に残ってはいません。

 

トンイの息子の英祖が眠る東九陵

英祖は西五陵に埋葬するつもりでしたが、貞純王后と一緒に東九陵に埋葬されました。

当時は、風水によって墓の場所を決めますが、英祖は風水が決めてで西五陵ではなく東九陵に葬られることになったようです。

しかし、実際は孫の正祖がまだ生存していた貞純王后に気を使い、貞純王后と一緒に入るように配慮したと言われています。

<英祖と貞純王后のお墓>

東九陵は世界遺産に登録される韓国で最も大きな王様の墓地です。

その大きさは東京ドーム40個分にもなります。

ここには、朝鮮の初代王・太祖をはじめとして多くの日本でも有名な王様、王妃様が埋葬されています。

 

そのため、英祖の最初の王妃である貞聖王后は西五陵に一人寂しく眠っています。

<英祖が埋葬される予定だった場所は今でも空いている>

朝鮮王朝時代の王様と王妃のお墓(王陸)は韓国には40基あります。

詳しくはこちら>>朝鮮王朝時代の王様のお墓【40基は全てユネスコの世界遺産】

 

トンイの孫のお墓はあるの?

トンイの孫は王にはなれませんでしたが、王としてのお墓「陵(ヌン)」があります。

英祖は生涯、6人の妻との間に9人の子供をもけましたので、トンイには9人の孫がいたことになります。

そのうち、男の子は2人だけでした。

 

一人が6歳で王世子になりましたが、9歳で病死した孝章世子(ヒョジャンセジャ)です。

そして、もう一人が、英祖に米びつに入れられて餓死させられた思悼世子(サドセジャ)です。

二人共、幼い時期に世子になりましたが、王にはなれませんでした。

 

実は、二人とも後に追尊されて、立派なお墓が存在します。

孝章世子は正祖が即位したときに追尊されました。

 

また、思悼世子は第26代の高宗が皇帝に即位したときに、荘祖の廟号を与えて追尊しました。

お墓は隆陵と呼ばれ、京畿道の華城にあります。

 

まとめ

トンイ(淑嬪崔氏)は、西五陵からは離れた昭寧園に一人寂しく眠っていますが、これは決して冷遇されたためではありません。

むしろ、英祖が尊敬する母を思って、風水学的にも最もよく、静かで景観の良い場所を選んだものと思われます。

母に会いに行くときは、他の王族に邪魔されることなく、静かに母子二人で話せる場所を選んだのかもしれません。

クムが母のトンイにできる最高のことをしてあげたと思います。

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