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サイムダンの家系図【意外!実在した師任堂は名家のお嬢様】

良妻賢母の鏡とされるサイムダン(師任堂)は絵画や書に驚くべき才能を持ち、後世に素晴らしい作品を残しています。

女性の自由が少なかった時代に自由闊達に才能を伸ばしたサイムダン。

いったいどんな家系で育ったのか?

疑問に思った私は、サイムダンの家系図を詳しく調べてみました。

 

サイムダンの家系図

サイムダン(師任堂)の本貫は申崇謙を始祖とする名門の平山申氏です。

申崇謙は暴君・弓裔(クンエ)を倒して、初代高麗王・太祖の擁立に貢献した大功臣でした。

<サイムダンの家系図>

高祖父の申檗は世宗の時代に左議政までなった人物、曽祖父の申自繩は成均館の大司成(実質的には最高責任者)を務めています。

祖父の申叔權は太宗(李芳遠)の末娘である貞善公主の孫にあたります。

 

サイムダンの父・申命和は学問に優れ、名賢(すぐれた賢人)と呼ばれました。

申命和は官僚として、都に務めるために単身で漢城に住んでいましたが、サイムダンが生まれたときに、己卯士禍に巻き込まれてしまいます。

<豆知識>己卯士禍(キミョサファ)とは
1519年に、洪景舟の勲旧派が趙光祖を中心とする士林派を死刑または追放した事件です。士林派は中宗が改革を目指して採用した若手官僚のグループでした。

命は助かりましたが、役職を追われた申命和は郷里の江原道で暮らすことにしました。

この時、申命和は才能を感じたサイムダンに絵画だけでなく、書、詩、儒教、歴史、文学など多くのことを教育をしたといいます。

 

サイムダンの母親は李思溫の娘で、本貫の龍仁李氏は有力官僚を輩出してきたを名門の家系でした。

母親も大変、教育熱心だったと言われています。

このように、サイムダンの両親はともに名家の出身で、女性に対しても教育に大変熱心でした。

 

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サイムダンはどんな人?

サイムダン(師任堂)は大人しく目立たない性格でしたが、幼いころから大変聡明だったといわれています。

サイムダンのプロフィール

本名:申仁善(シン・インソン)
号:師任堂(サイムダン)
生年:1504年
没年:1551年
享年:48歳
夫:李元秀
子供:4男3女

<豆知識>師任堂とは
師任堂(サイムダン)は名前ではありません。絵画や書で使用する称号(号)です。「古代中国周王朝時代の文王の母である太任を師とする」という意味を込めてつけました。太任は胎児教育を実践した女性で、師任堂が子供の教育に熱心であったことが分かります。師任堂と名のるようになったのは結婚後のことでした。実際の名前は申仁善(シン・インソン)と言われていますが、確かな記録はありません。

 

ずば抜けた絵画の才能

サイムダン(師任堂)は母方の実家・烏竹軒で生活していました。

そのため、5人姉妹の次女だったサイムダンは、母方の祖父・李思溫に大変可愛がられました。

 

サイムダンが7歳のときに、絵の才能に気づいた李思溫は有名な画家・安堅(アンギョン)の風景画を買って与えました。

すると、サイムダンが安堅の山水画を模倣した絵は李思溫を驚愕させたと言われています。

<豆知識>安堅(アン・ギョン)とは
安堅は世宗の時代に活躍した朝鮮3大画家の一人と言われる絵師です。王室の絵画を担当した図画院の画員でしたが、作品はほとんど残っていません。安平大君が見た夢を描いたいわれる夢遊桃源園が、唯一現存する作品です。

 

安堅に学んだサイムダンの画風は驚くほど繊細で、今でも朝鮮一の女流画家と称されています。

サイムダンは特に山水・草・虫などの描写に優れ、素晴らしい絵を残しています。

 

また、サイムダンは絵画だけでなく、書や詩の才能もあり、多くの書物を読んで学識も豊かでした。

サイムダンが名家のお嬢様であったことが、サイムダンの才能を一段と伸ばした大きな要因だったと考えられます。

 

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サイムダンの家族

サイムダン(師任堂)と夫の李元秀の間には4人の息子と3人の娘がいました。

関係 名前 生年-没年 備考
申命和 1476-1522 己卯名賢と称される
不明(龍仁李氏) 不明 李思溫の娘
李元秀(イ・ウォンス) 1501-1561
本人 申仁善(シン・インソン) 1504-1551 師任堂
長男 李璿(イ・ソン) 1524-1570 下級役人
次男 李璠(イ・ボン) 不明
三男 李珥(イ・イ) 1537-1584 韓国最高の儒学者
四男 李瑀(イ・ウ) 1542-1609 絵画の才能あり
長女 不明 1529-1592 李梅窓(イ・メチャン)
次女 不明 不明 尹渉(ユンソブ)の妻
三女 不明 不明 南陽洪氏の妻

長女の李梅窓(イ・メチャン)は名前ではなく、号です。

 

サイムダンの子供

サイムダン(師任堂)からは多くの才能ある子供たちが生まれています。

小さな師任堂と呼ばれた李梅窓

長女の李梅窓(イ・メチャン)は母親サイムダンの才能を最も多く受け継ぎました。

<李梅窓が描いた梅花図>

絵画や詩だけでなく、学識も高かったと言われています。

後に韓国儒学の父と呼ばれる弟の李珥(イ・イ)でさえ、分からないことは姉を頼っていました。

 

ちなみに、李梅窓(イ・メチャン)は名前ではなく、号(本名とは別に使用する名称)です。

李梅窓が描いた「梅花図」は江陵の烏竹軒(生家で市立博物館)に保存されています。

 

朝鮮最高の儒学者・李栗谷

サイムダンの三男の李珥(李栗谷)は朝鮮時代の最高の儒学者と言われています。

小さい頃から聡明でしたが、16歳のときに母親を亡くして、虚無感から暫く金剛山にこもって仏教を学びました。

更に、20歳で儒教の経典である論語を読破して、悟りを開いたといいます。

 

その後、李珥は故郷の江陵に復帰、23歳で科拳に首席で合格すると、なんと29歳までに9回の科拳に全て首席で合格してしまいます。

そのため、「九度壯元公」と呼ばれるようになりました。

 

29歳から本格的に官職につき要職を歴任、政治を行いながら学問の習得に努める学者官僚として活躍しました。

そして、朝鮮で李退渓(本名:李滉)と並ぶ代表的な儒学者となります。

実は、李珥は23歳の時に当時58歳の大儒学者の李滉のもとを訪れていました。

 

母の才能を受け継ぐ四男・李瑀

サイムダン(師任堂)の才能を受け継いだ子供として、もう一人四男の李瑀(イ・ウ)がいます。

<李瑀の菊花図>

李瑀も小さい頃から才能を発揮、多くの名画を残しています。

その多くは、烏竹軒に併設された博物館に姉メチャンの作品とともに保存されています。

 

サイムダンの夫

サイムダンの夫・李元秀の本貫は李敦守を始祖とする德水李氏です。

李元秀は世宗時代時にハングル創製に反対した儒者である崔萬理(チェ・マルリ)のひ孫にあたります。

父親の李蕆は官職につきませんでしたが、従兄弟たちは官職についている名門一族です。

<李元秀の家系図>

李元秀は早くに父親を亡くし、母親を助けて育ったせいか学ぶ機会がほとんどなく、学識もありませんでした。

しかし、サイムダンの父親・申命和がサイムダンの夫に一番求めたものは、サイムダンを理解して、その才能を伸ばしてくれる寛容さでした。

 

名門に生まれながら、官職に興味がない李元秀は申命和の希望と一致しました。

申命和の考えを理解できない周囲の人は、サイムダンの夫に李元秀を迎えたことを大変不思議に思ったそうです。

 

李元秀はサイムダンが亡くなってから10年後の1561年に亡くなりました。

享年61歳でした。

 

サイムダンの生家・烏竹軒

サイムダン(師任堂)が生まれ育った烏竹軒(オジュッコン)は江原道の江陵に現存しています。

<サイムダンの生家・烏竹軒>

現在は博物館や民俗館も併設されて、サイムダンや娘メチャンの作品を見ることができます。

烏竹軒はサイムダンが息子の李珥(イ・イ)を生んだ場所でもあり、韓国では大儒学者の生家として有名です。

 

広大な敷地に建てられた烏竹軒を見ると、サイムダンが名家のお嬢様であったことがよく分かります。

 

まとめ

サイムダン(師任堂)の家系は両親ともに名門の家系でした。

その中で、母方の祖父は幼いサイムダンの才能に気づき才能を伸ばすような教育をしました。

また、父親の申命和はサイムダンの夫を選ぶにあたって家柄よりも、サイムダンを理解し、才能を伸ばしてくれることを第一に考えました。

 

このように、才能を持って生まれたサイムダンは周囲の理解と協力により、その才能を見事に開花させることができました。

名家のお嬢様であったことが、サイムダン(師任堂)が才能を伸ばし、後世に名を残す女性になった大きな要因と考えられます。

 

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