48歳で亡くなったサイムダン(師任堂)
その死因は何だったのか?
サインダムは、今、どこの眠っているのか?
サイムダン(師任堂)の死因について調べました。
サイムダンの死因
1551年、48歳のときにサイムダン(師任堂)は病気で亡くなります。
平安道に転居してすぐの5月17日(旧暦)のことでした。
1年ほど前から胸の痛みを訴えて、床に伏すようになったと言われています。
心臓が悪かったようです。
5月14日に急に病状が悪化、5月17日に亡くなります。
夫の李元秀は仕事で長男の李璿と三男の李珥を連れて不在のときでした。
李珥(栗谷)が後に書いた記録には、サイムダンが亡くなった日、父親が荷物の中に赤く染まった真鍮の器を発見して、大変不思議がったとの記録があります。
しばらくして、母親が亡くなったとの知らせを聞いたそうです。
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サイムダンのお墓
サイムダン(師任堂)のお墓は京畿道坡州市にある李珥遺跡の中にあります。
お墓は家族墓です。
夫の李元秀、息子の三男・李珥(イ・イ)とその妻、長男の李璿(イ・ソン)と一緒に埋葬されています。
サイムダンは夫の李元秀と合祀されています。
墓主は李元秀ですが、サイムダンの方が歴史に於ける評価が高いため、申師任堂墓と呼ばれています。
<申師任堂墓>
サイムダンの家族墓は通常の墓とは違い、子孫の墓を先祖の上に作る形式をとっています。
一番上には、儒学者・李珥(栗谷)の墓、次に李珥の妻、長男の李璿、そして、サイムダンと夫・李元秀の合葬墓があります。
短い人生をひたむきに生きた才女は、今、静かに家族と申師任堂墓に眠っています。
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苦労が多かった結婚生活
サイムダンは結婚してすぐに、父親を早くに亡くしたため、母親の面倒も見ることになりました。
結婚後は度々、新居と実家を往復したそうです。
また、4男3女と子宝に恵まれたため、子供の世話や教育が大変だったと思われます。
一方、夫の李元秀は最初は美人で賢い嫁をもらったと喜んでいました。
しかし、あまりにも自分とは不釣り合いな嫁から次第に心が離れていきました。
ついには、気の許せる女性と浮気に走ります。
サイムダンの苦労は積もるばかりで、ついには病に侵されてしまいます。
このように、サイムダンの結婚生活は本当に苦労の多いものでした。
結婚してからの出来事をまとめておきました。
<結婚生活での出来事>
年月 | 出来事 |
1522年 | 8月20日、19歳で李元洙と結婚 |
李元洙の同意のもと江陵の実家で暮らす | |
父・申命和が亡くなる | |
母の面倒を見るため、新居と実家を行き来する | |
1536年 | 33歳の時、江陵の実家に戻り、李珥を出産する |
1537年 | 漢城に戻る |
1541年 | 38歳の時に漢城で母親と暮らす |
1542年 | 末っ子の李瑀が生まれる |
1551年 | 5月17日、48歳で病死 |
サイムダンの詳しい史実については>>師任堂(サイムダン)、色の日記の実話【本当に良妻賢母だったのか】を御覧ください。
まとめ
サイムダンの死因は心臓が原因と言われています。
しかし、その病に侵される大きな要因は「晩年までの苦労の連続」ではないでしょうか。
李元秀はサイムダンの父親がサインダムの才能を理解し、伸ばしてくれることを優先に選んだ夫でした。
しかし、その夫により、肉体的、精神的な苦労を強いられることになりました。
結果的に、そのことがサイムダンの寿命を縮めたと言えるかもしれません。