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師任堂(サイムダン)、色の日記の実話【本当に良妻賢母だったのか】

韓国では良妻賢母の鏡とされる師任堂(サイムダン)です。

史実のサインダムはどんな人物だったのか?

サイムダンの実話についてご紹介します。

 

師任堂(サイムダン)の実話

史実のサイムダンを誕生からご紹介します。

 

サイムダンの誕生

1504年、サイムダンは父・申命和と母(李思溫の娘)の間に5人姉妹の次女として生まれました。

サイムダンが生まれたのは、江原道江陵市にある母方の実家「烏竹軒(オジュッコン)」です。

母親の実家は多くの官僚を輩出した名門・平山申氏の一族でした。

詳しくは>>サイムダンの家系図【意外、実在した師任堂は名家のお嬢様】

<サイムダンの実家・烏竹軒>

烏竹軒はサイムダンの息子で朝鮮最高の儒学者・栗谷(李珥)の生家としても有名で、ドラマ「師任堂、色の日記」のロケ地にもなりました。

現在の建物は1975年補修工事されたものです。

烏竹軒は貴重な建物として1963年に韓国の宝物(国宝と重要文化財の中間にあたる文化財)に指定されています。

<豆知識>烏竹軒の名称の由来
周りに黒竹(くろちく)と呼ばれる竹が多く茂っており、黒い竹でカラスが一杯いるように見えるたことから、烏竹軒(オジュッコン)と呼ばれるようになりました。

烏竹軒は、燕山君の時代の重臣・崔應賢(チェ・ウンヒョン)が建てた建物です。

崔應賢の娘婿であった祖父・李思溫が相続したあとに、李思溫の一人娘・龍仁李氏(サイムダンの母)が引き継ぎました。

広大な土地に建つ烏竹軒を見ると、サイムダンが大変裕福な家庭に生まれたことが分かります。

父親の申命和は科拳を目指して漢城府で暮らし、年に何回か烏竹軒を訪ねる程度でした。

 

サイムダンの幼少時代

サイムダンは幼少の頃から大人しく控えめな性格でしたが、頭が大変良かったと言われています。

記憶力が抜群で、本をよく読んでいました。

 

母親の実家で育ったため、母方の祖父・李思溫(イ・サオン)に大変寵愛されました。

サイムダンの飛び抜けた絵の才能に最初に気づいたのは祖父でした。

 

祖父は試しに朝鮮で有名な画家・安堅の風景画を買って模写することを薦めました。

サイムダンが7歳のときです。

 

祖父の李思溫はサイムダンが模写した安堅の風景画に驚愕します。

少しオーバーかも知れませんが、どちらが安堅の絵か分らなかったと言われています。

こうして、サイムダンは絵を学び始めます。

 

更に、サイムダンが16歳のときに、己卯士禍(キミョサファ)で役職を追われて、父親の申命和が実家に戻ってきました。

父親は絵画だけでなく、書道、詩、儒教、歴史、文学、音楽など多くのことを学ばせました。

こうして、サイムダンは当時の女性としては珍しく、学識があり、才能豊かな才女として育っていきました。

 

李元秀との結婚

1522年8月20日、サイムダンは19歳のときに李元秀(イ・ウォンス)と結婚しました。

李元秀は父親の申命和がサイムダンの婿として選んだ人物です。

申命和はサイムダンの夫を選ぶにあたって、家柄よりもサイムダンの才能を理解して、支持してくれることを優先しました。

 

李元秀は名家の出身でしたが、当時、李元秀は無職で父親も既に亡くなっていました。

官職を望むような野心のある人ではありませんでした。

 

また、ドラマ「師任堂(サイムダン)、色の日記」でのイ・ギョム(宜城君)との出会いと恋愛はもちろんフィクションです。

 

サイムダンの結婚生活

サイムダンが結婚した年に父親の申命和が亡くなりました。

実家で三年間の喪に服したサイムダンはようやく、夫の実家で婚礼を挙げることにができました。

 

しかし、サイムダンは夫の実家に入ることはなく、夫の赴任先を転々しながら暮らしました。

このころ、李元秀は蔭位(父祖のお陰で官位得ること)により、何とか官職を得ていました。

 

サイムダンは度々、老いた実母が暮らす江陵の実家・烏竹軒へ戻ることがありました。

1536年、33歳の時には江陵の実家で李珥(イ・イ)を出産しています。

 

サイムダンは結婚後、20年間、婚家暮らしをしませんでした。

しかし、1541年、サイムダンは38歳のときに夫の姑が高齢のため、夫の実家である寿進坊(スジバン)に転居します。

そして、ここで10年間暮らしました。

 

寿進坊はドラマ「師任堂、色の日記」では、夫の李元秀が家を売ってしまい、ひどい暮らしを始めたところです。

その後、1550年に夫が水運判官に任命されると、1551年に三清洞で暮らし始めました。

 

サイムダンのエピソード

サイムダンには多くのエピソードが残されています。

その一つに、夫の李元秀が科拳の勉強に集中するように山に送り出した話があります。

 

合格するまで、戻って来ないと言っておきながら、李元秀は途中で戻ってきます。

怒ったサイムダンは勉強を続けないなら、尼になると脅しますが、結局、李元秀は科拳の合格は諦めてしまいました。

 

また、ドラマでは、李元秀はクォンと浮気をしますが、これは事実だったようです。

サイムダンは自分が亡くなった後に、浮気相手と結婚しないようにお願いします。

この女性が子供たちを大切にするとは思えなかったのです。

しかし、結局、李元秀はこの浮気相手と再婚してしまい、子供たちは大変苦労することになりました。

 

サイムダンの最後

1551年、48歳の若さでサイムダンは亡くなりました。

夫の李元秀は長男の李璿と三男の李珥を連れて仕事で外泊しているときでした。

 

サイムダンは1年前から胸の痛みを感じていましたが、突然、悪化したようです。

病死でした。

三男の李珥(イ・イ)は母の死にひどくショックを受けたと言いわれています。

サイムダンの死因については>>サイムダン(師任堂)の死因は何? を御覧ください。

 

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サイムダンの時代

サイムダンの時代は、男性が結婚後も妻の家で暮らす「男帰女家婚」の時代でした。

だから、サイムダンの祖父・李思溫や父・申命和も妻の家である烏竹軒で暮らしていました。

サイムダンも例外ではなく、子供が大きくなるまで烏竹軒で暮らしています。

 

また、16世紀末から17世紀の中ごろまでは女性は男性と変わらぬ権利と発言権を持っていたといいます。

サイムダンが夫のイ・ウォンスに強く発言するのも決して例外ではなかったのです。

 

財産相続も男女均分相続でした。

ドラマでも5人の姉妹に母親が遺産を分け与える場面がでてきましたね。

 

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サイムダンの生涯年表

サイムダンに関する出来事を年代順にご紹介します。

年月 出来事
1504年 申命和の次女として生まれる
1510年 7歳のときに母方の祖父が絵を学ばせる
その後、儒教の経典、古典を学ぶ
1516年 申命和が41歳で科拳(進士)に合格する
1519年 己卯士禍が起こる。申命和は難を逃れ、江陵に戻る
1522年 19歳で李元秀(イ・ウォンス)と結婚
父親の申命和が亡くなる
1524年 三年の喪に服した後に姑の家で婚礼を挙げる
長男の李璿(イソン)を出産
以降、夫の赴任先を転々として暮らす
1529年 長女(梅窓)を出産
年月不明 次男の李璠(イボン)を出産
年月不明 次女を出産
1536年 江陵の実家(烏竹軒)で三男・李珥(イイ)を出産
年月不明 三女を出産
1541年 38歳の時に夫の実家(寿進坊)で姑と暮らす
1542年 四男の李瑀(イウ)を出産
1550年 夫が水運判官に任命される
1551年 春から三清洞で暮らし始める
1551年 5月17日、48歳で病死

名家の令嬢に生まれたサイムダンは、周囲から寵愛されて自由闊達に育ちました。

当時の女性としては珍しく、絵画をはじめとして多くのことを学び、その才能を開花させます。

 

好きなことが自由にできる一方で、だらしない夫のため、結婚生活はあまり良くなかったようです。

最後は病気を患い、48歳の年齢で生涯を閉じています。

 

実在した登場人物

ドラマ「師任堂、色の日記」の実在した登場人物をご紹介します。

サイムダンの子供は実際には4男3女の7人でした。

ドラマに登場しない1男2女については、ほとんど記録がありません。

役名 実在のモデル 備考
シン・サイムダン 申師任堂 女流書画家
イ・ギョム 李巌(イ・アム) 王族、絵師
中宗 中宗 第11代国王
シン・ミョンファ 申命和 師任堂の父
龍仁イ氏 龍仁李氏 師任堂の母
イ・ウォンス 李元秀 師任堂の夫
イ・ソン 李璿(イ・ソン) 師任堂の長男
イ・メチャン 李梅窓 師任堂の長女
(未登場) 李璠(イ・ボン) 師任堂の次男
(未登場) 師任堂の次女
イ・ヒョルリョン 李珥(イ・イ) 師任堂の三男
(未登場) 師任堂の三女
イ・ウ 李瑀(イ・ウ) 師任堂の四男
廃妃シン氏 端敬王后 中宗のもと王妃
イム・コッチョン 林巨正 伝説的な義賊
クォン氏 クォン氏 李元秀に浮気相手
ナム貴人 貴人南氏 成宗の側室
貞順王女 貞順翁主 中宗と側室の娘
世子(天胤) 李峼(イ・ホ) 第12代王・仁宗

サイムダンの初恋の人として登場するイ・ギョム(宜城君)ですが、実は実在したモデルがいました。

詳しくは>>師任堂の初恋イギョムのモデルは実在した李巌【可愛い犬の絵の作者】を御覧ください。

 

カードの写真の男性は実在した韓国人

ドラマの中でソ・ジユンがラドから受け取ったカードの「韓服を着た男」は画家ルーベンスが描いた韓国人と言われています。

<韓服を着た男>

韓国人はイタリアの航海商人フランシスコ・カルッティが日本で奴隷として買った5人の韓国人の一人でした。

 

カルッティは4人をインドで解放して、一人をイタリアに連れ帰り、アントニオ・コレアという名前をつけて育てました。

そして、たまたま旅をしていた画家が韓服姿のコレアに興味をいだき、彼の姿を絵に書いたと言われています。

その画家こそ、後にバロック美術の巨匠となるピーテル・パウル・ルーベンスでした。

 

ドラマでは「韓服を着た男」をイタリアに渡ったイ・ギョム(宜城君)に見立てていると思われます。

現在、絵画の「韓服を着た男」はアメリカのポルゲティ博物館に所蔵されています。

 

良妻賢母と言われる理由

実在したサイムダンは自由闊達に生きた女性であり、実際には良妻賢母とはいえませんでした。

しかし、大儒学者である李珥の母親であることが、サイムダンを良き母として神話化したといえます。

 

また、朴正煕大統領の時代にサイムダンが偉人として選ばれたことも、サイムダンを良妻賢母と強くイメージ付けたようです。

朴正煕の妻であった陸英修は日頃の行いから、慈悲深い国母と言われていましたが、夫を狙った暗殺に巻き込まれて亡くなっています。

韓国民にサイムダンと陸英修のイメージが重なり、サイムダンを良妻賢母の鏡と認識したと言われています。

 

サイムダンが描いた絵画

サイムダンは韓国の有名な山水画家・安堅(アン ギョン)の影響を強く受けており、画風は驚くほど精緻精妙です。

彼女は安堅の山水画を夢中で模写したと言われています。

<安堅の夢遊桃源図>

 

サイムダンは人物は余り描かず、山水・葡萄・草・虫などを多く描いています。

作品は繊細な筆線、鮮明な彩色、安定した構図を特徴としています。

5千won札の裏に採用されている師任堂の草虫図はケイトウとスイカの絵の一部が合成されています。

<5千won札の裏に採用された絵>

 

実は、サイムダンの肖像画が採用された5万ウォン札の裏側の絵はサイムダンの絵ではありません。

<5万ウォン札の裏側>

朝鮮中期画家である李霆(イ・ジョン)の「風竹図」に魚夢龍(オ・モンリョン)の「月梅図」を合成させたものなんです。

ちょっと、画風が違いますよね。

 

サイムダンの絵画はソウルの国立中央博物館をはじめ、さまざまな美術館や博物館に韓国の重要文化財として展示されています。

また、生家・烏竹軒の博物館には山水画、葦雁、蓮鷺、梅の花、ブドウ、草虫、刺繍屏風など、100余点のサイムダンの遺作が保存されています。

 

まとめ

サイムダン(師任堂)は名家に生まれ、周囲の理解と協力により才能を開花させた女性でした。

史実のサイムダンは決して良妻賢母と言えるような女性ではありませんでした。

 

しかし、以前からサイムダンは良妻賢母の鏡とされてきましたが、これは大儒学者の母親であるサイムダンが神話化されたためと言えます。

更に、朴正煕大統領の時代にサイムダンは一躍、良妻賢母として大きな脚光を浴びます。

 

これは、朴正煕の妻が慈悲深い国母と評されていたことが重なり、更にサイムダンの良妻賢母としてのイメージを強くしたと言えます。

朴正煕の妻の陸英修(ユク・ヨンス)が夫の暗殺に巻き込まれて亡くなったことも大きな影響を与えました。

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